フィリッパ・ハミルトン

『装い』の世界にあって一際立った歴史と大いなる存在感を保ち続ける西欧の一国―フランス。フィリッパ・ハミルトン(Filippa Hamilton)〔1985年12月3日生〕―この女性は、この国生まれの『極北の国』のひとりの貴族の令嬢にして、ラルフ・ローレンというファッションブランドの『顔』のひとりとしての認知を主としてその活動を続けるスーパーモデルである。

その眼差しとともに佇むフィリッパ
その眼差しとともに佇むフィリッパ

目次

経歴

西欧の西の外れ~フランス共和国のその歴史ある『モードの都』―パリにフィリッパ・ハミルトン=パルムスティエルナ(Filippa Hamilton-Palmstierna)という名でその生を享けたフィリッパは、両親がスウェーデン人という父と、スペイン系の母を持った。ミカエル(Michaël)という名を持ったこの父は、のちにその父母の祖国―スウェーデン王国の貴族に列せられる人であった。

いつしかこの国―フランスを大きく南下し、この国の南西のまさに外れに佇む町・・・大西洋の遥かなる揺らぎとスペインとの国境とを間近に見据えるビアリッツという町で育った・・・そんな少女フィリッパに大きな転機が訪れたのは、かの世紀も大詰めとなった2000年。

その地元―ビアリッツの街を歩いていたときに、あるフランス人写真家からの『発掘』を受けたフィリッパは、それより15歳にしてモデルの道を歩むこととなったのであった。

そして自身の更なる転機となったのが、世紀を越えて迎えたその翌年―2001年。ブルース・ウェーバーという名高いゲイの写真家による撮影を受けたうえで、『ラルフ・ローレン』―この米国発の高名なるファッションブランドによる『ロマンス』という名の香水の広告塔への起用を受けたフィリッパは、それからというものこのブランドと深く関わってゆくのである。

ヴォーグ誌の母国フランス版の表紙に輝くフィリッパ ~2002年、2月。
ヴォーグ誌の母国フランス版の表紙に輝くフィリッパ ~2002年、2月。

さっそくそのラルフ・ローレンのそれと併せて同じく米国の生んだジル・スチュアートというファッションブランドのショーを飾った2001年―この年を過ぎて2002年になると、ヴォーグ誌の母国フランス版の表紙を飾ったうえ、ジル・ベンシモンという名高いフランス人写真家による撮影を受けてエル誌の『白人特集』に登場。

年も半ばに迫るにつれて、ハーパース・バザー、ヴォーグ誌イタリア版、同誌イギリス版、・・・国際的に名高い雑誌の数々にその姿を現し、年も後半になるとヴォーグ誌のスペイン版の表紙に輝き、マリオ・テスティーノというペルー人写真家の撮影を受けたうえで『W』という雑誌に登場。

そして9月にあってニューヨークを舞台にラルフ・ローレンのショーをその専属の一人という形で歩き、それからというもの毎年―このファッションブランドのショーのみを自身のランウェイの仕事にするようになった。

2005年度秋季~ラルフ・ローレンのショーにてそのランウェイを歩きゆくフィリッパ。
2005年度秋季~ラルフ・ローレンのショーにてそのランウェイを歩きゆくフィリッパ。

イタリアの歴史あるピレリ社の送るピレリ・カレンダーという冊子に登場、そしてヘルムート・ニュートンというドイツ出身のあまりに高名な写真家の被写体となったうえで、ヴォーグ誌ロシア版に登場―そんな2003年を終えて迎えた2004年にあっては、イタリアの『アミカ』という雑誌の表紙を2回、同国のマリ・クレール誌の表紙を同じく2回、エル誌の同国版と母国フランス版の表紙を修飾。

例年のものとなったラルフ・ローレンのショーの仕事の傍らで、2005年にはヴォーグ誌ドイツ語版や同誌スペイン版、更には・・・ナオミ・キャンベルとアドリアナ・リマという、その名声あまりに高価に過ぎてもはや歴史的存在とすら称えられうるモデルらとともに、かのピレリ・カレンダーへの再びとなる登場を果たした。

そのキャリアも5年目を過ぎてエル誌母国フランス版の表紙に再び輝いた2006年~馴染みのラルフ・ローレンのショーの他には特に目立つ活動も見られなかった2007年~そうして2008年になると、さっそくヴォーグ誌のロシア版に登場。年も後半にあってエル誌イタリア版の表紙に姿を見せた。

様相

茶髪に緑色の瞳。その身長おおよそ1.74m。エルザ・シルヴァン、ジャケッタ・ウィラー、ソランジュ・ウィルバート、ヴァレンティナ・ゼリャヴァ、・・・こうした同業者らとの交流を持ち、趣味は絵描き。

欧州地域を中心とした国々の著名なる雑誌のそれはもとより、父祖の国たるスウェーデン王国のエル誌の表紙を、2002年の2月、2003年の1月、2005年の2月、そして2006年の2月および6月、・・・そうして飾ってきたフィリッパは、そうした紙面における仕事の他には、ラルフ・ローレン、ラルフ・ローレン、そのほぼ全てがラルフ・ローレン・・・。

ラルフ・ローレンに始まり、そしてラルフ・ローレンに終わる―傍観者の目にそんな予感を覚えさせて余りある女性モデル。

そんなスーパーモデル―フィリッパ・ハミルトンは、父の由縁でひとりの貴族のお嬢様としての名を得てのちも、自身の少なからずの半生を育んだパリという街に生活の居を置き続け、今日もどこかの『装い』の顔をその『美』をもって飾り続けている。

騒動

そんなフィリッパが一般の媒体にあって広く注目を集めるに至ったのは、2000年代もいよいよ終幕を迎え見ようとしていた頃―2009年も後半に差し掛かる頃に巻き起こったある騒動がそのきっかけであった。

2009年~9月~英語圏のとある有名なブログが、とあるモデルの写った一枚の広告写真にめざとく着目したうえで、それを『フォトショップ事変』といった意味の触れとともに紹介した。この文脈における『フォトショップ』とはすなわち『写真のデジタル修正』の暗喩であった。そして~そこに写ったモデルがそう・・・『デジタル変身』を遂げて実物と掛け離れるに至ったフィリッパ・ハミルトンその人・・・そしてその広告を発したブランドとは・・・もはや言うまでもなく・・・そう―ラルフローレンであった。

『日本のみんな、おひさしぶり、・・・、わたしもやっとスリムになれたよ。名前は前のままだけど、もうハミってなんかないんだから。ねえお願い、キレイになったわたしを見て!』
『日本のみんな、おひさしぶり、・・・、わたしもやっとスリムになれたよ。名前は前のままだけど、もうハミってなんかないんだから。ねえお願い、キレイになったわたしを見て!』

それで具体的に何がどうなったのか―すなわち生身のフィリッパ・ハミルトンがその修正とやらによって如何なる変貌を遂げたのかについては、それの理解の促進のためにと、英国発のデイリーメール紙が良い仕事をしている

ブログからブログへと飛び火するにつれ一際大きな脚光を浴びるに至ったこの話題の沸騰を受け、ついには渦中のラルフローレンが、この話題の発信源となったブログらに記事の削除を要請。やがてはニューヨーク・デイリーニュースをその始めとする数多の著名なるマスメディアにまで取り上げられることとなった。

そうしたマスメディアからの取材に対してラルフローレンは、渦中の広告写真について、修正の事実を認めたうえで、承認を受けられなかった米国にあっては使用されずに終わったものの、『手違いによって日本に出回った』―そう返答。

同じく渦中の人たるフィリッパもこの件についての取材を受けるに至り、『太り過ぎ』であるとの理由でラルフローレンからの解雇通告を受け取った―そう答えた。

・・・が、他方に寄せられた情報によれば、この写真はそもそも日本向けの広告のために生成されたものであり、そしてそもそも、その日本の首都たる東京にあるヴィーナスフォートという名のモールに構えるラルフローレンの旗艦店の前にて撮影されたものであった。

とあるブロガーのつぶやき:『米国でもどこでも承認されなかったこんな凄まじい広告がさ、なんで日本ではダイジョブ扱いなのか、それがどうしても理解不能なんだよな。I’m still wondering why such an atrocious ad is okay for Japan but not for the U.S. or anywhere else.

いずれにしても・・・そうしてあらぬ形をもって脚光を浴びるに至ったモデル―フィリッパ・ハミルトン。これがその『終幕』であるとするならば―やはり最後の最後に至るまで『ラルフローレン』づくしの存在であった・・・そういうことになるのであろうか。そうして一人の女性としてのフィリッパ・ハミルトン=パルムスティエルナがそこに残されたのであった。

日本からの返答:『すんまへんな。まあ商売なもんではっきり言わしてもらいますとね、油まみれのぶっといコーカソイドの身体なんぞ、こないして抜本的に修正入れんとうちでは使えまへんのや。いやはやほんっとすんまへんな。わかったら次からはまともな代謝能力持ったのよこさんかいや。

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