五十川八幡宮

福岡県都―福岡市のその南区の内に街区を連ねる五十川(ごじっかわ)という町のさなか。五十川 八幡宮(ごじっかわ はちまんぐう)―そう呼ばれるこの神社は、応神天皇/神功皇后/玉依姫命という三の神を祀り奉ずる宮として、民家のひしめく住宅街にささやかな緑をたたえている。

『八幡宮』―蝉の鳴き声賑やかなりし夏の日に鎮まる二の鳥居
『八幡宮』―蝉の鳴き声賑やかなりし夏の日に鎮まる二の鳥居

目次

歴史

この神社―五十川八幡宮のその起源やごく初期の頃の歴史については、『筑前三大地誌』と呼ばれる古書類や、この宮自身の伝える縁起にも詳らかでない。

境内に置かれた由緒書
境内に置かれた由緒書

この宮自身の伝えるところの縁起によれば、五穀豊穣、厄除け、開運、家内安全、大願成就の神として・・・そしてこの宮の鎮座する五十川集落の鎮守の氏神として、古来より崇敬を受けてきたという。

近世には怡土郡三雲村―のちの同県前原市三雲地内―に出土した古の剣を貰い受けてその神体に納めていたものの、江戸時代も終わりに差し掛かろうという頃の文化年間(西暦1804年〜1817年)にあって、宮は火災に見舞われることになり、そのときに―その古剣もその禍を被り焼失の憂き目に遭った。

それはちょうど福岡城内の能楽堂の改築が行われていた頃のことであったため、その建物―能楽堂―を拝殿として貰い受けたという。

やがて近代に入り長い歳月のうちに老朽化を迎えたため、昭和10年(西暦1935年)の8月に至って、改築を目指す委員会が結成された。氏子をはじめとする数多の参与の人々からの多額の浄財の寄進に恵まれたことで、それからおおよそ2年後の昭和12年(西暦1937年)に新たな神殿、拝殿および参道が完成。

古き拝殿は絵馬堂にその姿を変え、かくしてこの宮―五十川八幡宮は今の姿に至ったのであった。

境内

筑紫郡の那珂川町に源流を湛える那珂川は、この町を抜けて福岡市に入ると、市内を貫流しながらやがて博多湾の溜まりに注ぎ込んで果てる。

五十川の町中に口を開いた一の鳥居
五十川の町中に口を開いた一の鳥居

『五十川』という名のその街区は、そこ福岡市内は南区の内の東方の外れにて、同市の内の博多区と広く境を接して町並みを広げつつ、かの那珂川の水面をそのすぐ西方に見据えるところにある。

この川とほぼ並行して街中を走る二車線の細き車道。『福岡保養院前』―そう呼ばれる信号地点から右手に伸びる細道を入る。そこにこの宮―五十川八幡宮は西の方角に向かって鎮座。民家のひしめく住宅街のさなかに鎮守の森のささやかな緑をたたえている。

『八幡宮』との額を掛ける、明治20年(西暦1887年)の銘が見られる石鳥居。いわゆる『一の鳥居』に当たるこの鳥居をくぐると、左右に公園を思わせる遊具を見ながら、参詣者はやがて次の鳥居―『二の鳥居』に対面することになる。

手前に狛犬を据え置くその拝殿
手前に狛犬を据え置くその拝殿

一の鳥居と同様に『八幡宮』と刻んだ額を掛けるこの鳥居は、その銘によれば、一の鳥居の設置からおおよそ16年後―明治36年(西暦1903年)に奉納された石鳥居。これを入れば、左に手水舎を過ぎて、参詣者はすぐさまこの宮の神体の内玄関―拝殿と対面する。

内部に『八幡宮』との額を掛けた拝殿―昭和12年(西暦1937年)の改築を経て今の姿に至るものという拝殿。手前には大正8年(西暦1919年)の奉納であるという狛犬が一対。左手前には文化年間(西暦1804年〜1817年)の火災のときに福岡城から譲り受けたものであるという『絵馬堂』。

拝殿の左脇に佇む薬師堂
拝殿の左脇に佇む薬師堂

この拝殿を含む神殿の左脇には、一体の立像とともに数多の小さな座像を納める薬師堂。右脇にはそれとほぼ同じ大きさを持った何らかの祠が佇む。

地の名士たる者であったのだろう『後藤武夫』なる人物を顕彰した石碑。戦没者の碑、道路の更正を記念した碑。そしてこの宮の鎮座する地―五十川の小史を記し伝えもする、福岡市による農地改良を記念した碑。

そうした事物を境内に置きながら、市街化の波に呑まれた町の一角にあって、五十川八幡宮は今日もそこに古来からの神の息吹を伝えている。

一の鳥居の手前の小道を北上すれば―浄土真宗の妙楽寺という、近世からの歴史をそこに伝える寺の山門へと突き至る。

『農地改良碑』

―『大字五十川(ゴジツカ)は小字三十から成り地形と遺跡から見て遠い昔より農生活を営んで来たものと思はれる。古書には「五十構村」「牛持(時)構村」「午時構村」とあり「五十溝村」との説もあるが明らかではない。八幡宮を産土神とし神体は古代の剱であつたが文化年間に焼失と云ふ。藩政時代は筑前国那珂郡五十川村であつた。廃藩後塩原、清水と共に福岡県八大区九小区の内とされたが、明治二十二年筑紫郡曰佐村五十川となつた。那珂川老司井堰から取水する関係であつた。昭和二十九年福岡市と合併。都市化が始まつた。昭和四十七年国鉄線路を境に南区、博多区に分けられ又戸数の増大につれて、子田町、清道町、高木町宮竹本町を分町した。以上の町名は尚、元の小字を名としたものであつたが、やがて子田、八畝町、東ノ坪が諸岡二、三丁目、宮竹本町が井尻一、二丁目と町名が変更し、五十川の名を残すのは面積にして元の四分の一となつた。我々は農事組合員として感無量である。依つて組合としての事跡の一端を記して後世に伝えたい。
この地の歴史を記し伝える『農地改良碑』
この地の歴史を記し伝える『農地改良碑』
一、明治五年横手原に二千四百坪の溜池を新設した。老司井堰からの取水だけでは不足したからである。この池は昭和四十年に処分し五十川公民館の建設費とした。
一、明治二十二年戸数五十一戸二百九十九名、田 六十五町、畑 十七町、山林五町で耕地の最も多い時であつた。
一、当地はもともと湿田が多く耕作に難渋していた。大正三年から三年の歳月をかけて改良に着手、広き四十町に及び、県下に類のない大事業と云われた。田毎に溝を掘り松枝を埋設、暗渠排水を施した上、幅十間長さ三十間を基本とした区画整理を行い、今に見る整然たる美田としたのである。
一、大正五年宮竹に第二溜池を構築(三千六百坪)
大正十五年川添井堰改修
一、昭和三十八年従来の一間道を四米、六米に拡幅。次いで昭和四十二年残りの地区の基盤整備道路拡幅(延長八千二百九十枚)を続け後に道路は市に寄付した。
今この地は往時の農村の面影を失うに至つたが、父祖の営み我々の努力がその礎となつていることを信じ、郷土の弥栄を祈つて此の碑を建てるものである。』...

例大祭

参道端に佇む手水舎
参道端に佇む手水舎
歳旦祭 1月1日
春祭 4月3日
夏祭 7月15日
秋祭(『当渡し』) 10月
新嘗祭 11月23日

古記

筑前国続風土記拾遺

八幡宮
産神なり。神體ハ劔にして其形甚奇異也。近年怡土郡三雲村より掘出せる物と同し。いともゝ古き世のものなり。若ハ神功皇后の比の物なるへし。をしむらくハ文化年夜炎上にして此劔も燒折れたり。今ハ其折たるを納むといふ。
那珂郡>五十川村

筑前国続風土記附録

八幡宮 カミノヤシキ 神殿方五尺・拜殿二間三間・石鳥居一基 祭禮十月三日・奉祀天野造酒
産神也。應神天皇を祭れり。鎭座の年歴傳ふる事なし。社内に藥師堂・地藏石佛あり。
那珂郡>五十川村

所在

住所は福岡県福岡市南区五十川2丁目16番にて、最寄の電停はJR鹿児島本線竹下駅、最寄のバス停は西鉄バス『五十川』。

資料

  • 『筑前国続風土記拾遺』 - 青柳種信
  • 『筑前国続風土記附録』 - 加藤一純/鷹取周成
  • 境内の由緒書