医王寺 〔瑠璃光山〕

筑後川の大いなる流れを湛える福岡県はその久留米市。その市街のわずかな一角にあって、瑠璃光山と号する真言宗の一ヶ寺―医王寺(いおうじ)は、軒を連ねる数多の寺々とともに寺町(てらまち)を織り成している。

ある晩秋の日の寺町にしかと開かれたその山門
ある晩秋の日の寺町にしかと開かれたその山門

目次

歴史

この寺―医王寺のその歴史は、江戸時代を迎えてほどなくの頃の元和7年(西暦1621年)にあって、快宜法印という僧が時の藩主の祈願寺として創建したことに始まった。

第4代目久留米藩主頼元の時代―すなわち寛文8年(西暦1668年)から宝永2年(西暦1705年)―に50石の寺領の寄進を受け、更に明治維新を迎えてのちに神田山円通寺―五穀神社という宮の境内にあった寺―の名跡を継承し、その多くの遺品を境内に受け継いだ。

明治元年(西暦1868/1869年)に本堂を再建―のちに至って更に拡張、かくして今の姿へ。

伽藍

久留米の市街を貫くとある大通りの一角から北に向かって入ってゆく通り―そこ佇む寺町。

南から、心光寺宗安寺本泰寺浄顕寺真教寺西方寺誓行寺妙正寺妙蓮寺正覚寺千栄寺、遍照院、妙善寺善福寺徳雲寺、・・・それぞれの由来と歴史を秘めて連なる数多の寺々。

高く聳える大師像
高く聳える大師像

瑠璃光山―医王寺は、ちょうどこれらのうちの千栄寺と遍照院との間を通る小道―この寺町の通りから左(西)へと入ってゆくその細道へと入って少林寺を過ぎ、まさに寺町にあってその『離れ』といえようところに伽藍を置いている。

本堂
本堂

南に向かって開いた山門。石段を上がってこれを入ると、『三井四国巡拝団』なる主体が奉納したものという、弘法大師の大きな石像が右手に聳え立つ。その向こうには朱色の鳥居を携える『稲荷大明神』の祠。

そのほど近くにある本堂は、その脇に秀作の古仏にして参詣人多しという不動堂を携えつつ、内に薬師如来を拝する本尊を祀っている。この本尊は『川上薬師』という伝説を秘めるものであるという。すなわち、霊験を疑われて筑後川に投げ込まれたこの像が、五あるいは六町ほどの川上に流れ着いた―とそのような伝説を、である。

かつて受け継いだ円通寺の遺品が今も境内に多く残るという。

寺宝

五穀神社の祭神であったものという印度神の御影と厨子、『筑後國三十三ヶ所観音霊場十六番』を示す神田山円通寺の額、四国八十八箇所の石仏、歓喜仏、・・・これらに加えて、本寺には次のような寺宝が伝えられている。

その境内には石仏をはじめ様々な事物が散在している。
その境内には石仏をはじめ様々な事物が散在している。

如意輪観音

かの神田山円通寺の本尊であった観音。七代目久留米藩主の有馬頼徸が、八女郡轟産の光遠木という銘木をもって江戸の仏師に彫刻させたもので、胎内に自筆の『紺紙金泥観音普門品』なるものを収めているという。

地蔵菩薩彫像板碑

高さ60cmほどの自然石で、中央部を彫り凹めて地蔵尊を半肉彫に表現したもの。その左表面に大日如来の種子と、年号のうえに重ね書きされた『秋花夢念童子』との刻字を持つこの板碑は、その構成や彫法からして室町時代の応永年間の作と推定されているもので、市によって有形民俗文化財に指定されもしている。

八ツ墓

天正19年(西暦1591年)の5月―毛利秀包の城に招かれた高良山座主の麟圭親子は、城からの帰途の最中に、柳原という地で伏兵からの襲撃を受け、やがて家臣とともに討ち死にした。親子のその死地となった東久留米の里人はこれを悼み、その屍を集めて葬った。

―これがすなわち八ツ墓と称されるもので、昭和55年(西暦1980年)に至るまで西鉄久留米駅から程近くの飲食店街の中にあって、8月20日を祭日として地元の人々により供養され続けてきたが、時に至って都市開発のために本寺に移されたのであったという。

所在

住所は福岡県久留米市寺町35にて、電話番号は0942-33-3594、最寄の電停は櫛原駅。

資料