妙善寺 〔大雲山〕

筑紫次郎(ちくしじろう)―そのような異名を知らしめもする大流・筑後川(ちくご-)。その流れが今も筑後と呼ばれる地方にちょうど差し掛かるとき、久留米(くるめ)の市街はその南側に市域を広げて今に佇む。妙善寺(みょうぜんじ)というその寺は、その山号を大雲山と称する日蓮宗(にちれんしゅう)の一ヶ寺にして、佛行院との院号を持ち、かの市街のその一角にあって、数多の寺々とともにそこに寺町(てらまち)を形作っている。

ある冬の日のその三門と本堂
ある冬の日のその三門と本堂

目次

歴史

そのはじめについては、その詳しい年度は不明ながらも、寺伝によれば、本寺の歴史は、仏行院日信(または仙行院日信)という者によって浮羽郡(うきは-)の水縄山―耳納山(みのう-)の古称―の麓に開かれたことに始まったという。

のちの太閤―豊臣秀吉(とよとみひでよし)による安土桃山時代(西暦おおよそ1568〜1600年)の九州征伐の際にはその兵火を被るも、のちの元和7年(西暦1621年)、当時の久留米藩主・有馬豊氏(ありまとようじ)より寺地を受領したうえで、開基の僧の日信が現所在地に本寺を移転した。この移転については、第5世住職の月性が行ったものとの説もある。

寛永2年(西暦1625年)には、その移転前の寺跡から覚月宗利という者が日蓮の木像を発掘し、それを本寺に寄進。これによって本寺は『土中出土宗祖安置の道場』とも称したと云われている。

時も下って、文化5年(西暦1808年)には肥後(ひご)の本妙寺(ほんみょうじ)からその分霊として『清正堂』が勧請され、やがて近代に入り、大正3年(西暦1914年)に至って本堂が修築されたのであった。

伽藍

福岡県の南部に広がり、やがては有明海(ありあけ-)に注ぎゆく大河―筑後川の大いなる流れを湛える久留米市。この川の南のほとりの町に佇む寺町―その文字通りに数多の寺々が軒を連ねる町―の一角に妙善寺のその伽藍は置かれている。

その左右にはそれぞれ善福寺正覚寺という寺が寺域を接し、小路を隔てたその正面には千栄寺という禅寺―その脇からは少林寺医王寺といった寺々の佇む小路が延びる。

宗旨・山号・寺号―日蓮宗・大雲山・妙善寺―を刻んだその三門は西の方角に向けて開かれ、これを入ってすぐ突き当たりにその本堂が座している。その内に祀る本尊は、宝塔、釈迦如来像、多宝如来像などを『一塔両尊四菩薩』なる様式で安置したものであるという。

境内の左隅には『清正堂』―浄財寄附者の芳名碑にある称名『清正公堂』。
境内に置かれた『清正堂』。同じ寺町の妙正寺の境内にもある。
境内に置かれた『清正堂』。同じ寺町の妙正寺の境内にもある。
武将・加藤清正(かとうきよまさ)ゆかりの当地・熊本の本妙寺から文化5年(西暦1808年)に勧請されたこの堂は、清正の在世中に彫刻されたものと伝わる一木三体造りの日蓮像を祀り、それにあわせて『三〇番神』なるもの、かつては霊験あらたかとして名があったという鬼子母神(きしもじん)などを安置している。

あわせて伽藍を形作るは、浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の立像を安置する小堂、そして次のような者らの墓碑。

  • 柘植善吾(つだぜんご) - 江戸〜明治時代の人物。久留米藩最初の米国留学生で、大善寺(だいぜんじ)の宮本洋学校の校長なども務めた。
  • 高村権内 - 江戸時代初期の人物。生葉、竹野、山本という三つの郡の奉行を務め、大石、長野、袋野という地の水道工事などに功績があった。

今にかようの伽藍をもって、近世と云われる時代からの歴史を刻み続ける妙善寺は、徳雲寺妙蓮寺妙正寺西方寺真教寺本泰寺宗安寺心光寺浄顕寺誓行寺、遍照院、...。それぞれの歴史の歩みの先にここに集まってきた幾多の寺々とともにそこにあって、ともに寺町を織り成している。

所在

住所は福岡県久留米市寺町70-1にて、電話番号は0942-33-3484、最寄の電停は櫛原駅。

資料