妙徳寺 〔今峰山〕

遥か往古の名僧とのゆかりとその歴史を今に伝える古刹―妙徳寺(みょうとくじ)という名のその曹洞宗の一ヶ寺は、その山号を今峰山と称し、福岡の地に悠遠の歴史をたたえる博多の町の・・・その『川向こう』の市街のさなかに伽藍を据え置く禅寺である。

ある晩秋の日の昼時にしかと開かれたその山門
ある晩秋の日の昼時にしかと開かれたその山門

目次

歴史

この寺―妙徳禅寺の興りについては、その起源は古書類にも明確でないものの、遅くとも平安時代と鎌倉時代との境目にあたる建久2年(西暦1191年)にはこの地に開かれていたものと考えられる。

というのは、かの日本の臨済宗の開祖と謳われる禅師―栄西(えいさい)が宋に渡り、そして帰国ののちに初めて住んだのがこの寺である―とそのような伝えがあることによる。栄西が帰国したのが建久2年(西暦1191年)。のちにその名を高める名刹―聖福寺(しょうふくじ)の造営に際してこの寺に居を定めたのであったという。

『筑前三大地誌』のひとつに数えられる『筑前国続風土記拾遺』によれば、開祖は葉上なる者。時代を経てゆくなかで久しく途絶えの時を送っていたが、室町時代にあたる応永の頃―西暦1394〜1427年―に天性という僧が中興。ほど近くに鎮座する名社―筥崎宮(はこざきぐう)との関わりを持ちつつ、近世には『今山』との山号を称し、博多の明光寺という寺の末寺としてあった。

馬出の町とその伽藍の遠貌
馬出の町とその伽藍の遠貌

寺誌『福岡寺院探訪』の編纂の時点―昭和63年(西暦1988年)の11月〜平成2年(西暦1990年)の5月―で、その住職は第28世であった。

伽藍

古来よりそこに在り続けてきた博多の町の東の外れ―そこには、遠く太宰府の山間より流れ出でてやがては博多湾にまで注ぎ込んでゆく御笠川という名の流れが水面を湛えて揺れる。

『石堂川』と呼ばれもするこの流れを博多の町から東に渡ると、『博多』の側とはいささかばかりか―あるいは大きく―空気を異にする市街が広がる。千代(ちよ)―今にそう呼ばれるところのその市街を更に東へとゆくと、馬出(まいだし)という街区へと町はしだいに移り変わってゆく。

妙徳寺―この歴史ある古刹は、この馬出の町の外れといえよう市街のさなかに伽藍を置いている。

本堂
本堂

南の小道へと向けて開かれた瓦葺きの山門。

左手前に『日切地蔵尊』との刻銘の浮かぶ石塔を、右手前に『曹洞宗 妙徳禅寺』との刻銘の浮かぶ石塔を携えるこの門を入ると境内へ―右手の奥に庫裏らしき建物を、左手の奥に日切地蔵の堂と鐘楼とを見ながら、すぐにその本堂に突き当たる。

伽藍の界隈は由緒深い寺社の数々を含めた歴史上の遺物が大変に多いところで、すぐ近くといえる場所に限っても、その西方に称名寺、宗玖寺、翁別神社、大光寺、松月院、・・・。すぐ南方に道具山神社、白山大権現、・・・。そしてすぐ東方には官幣大社―筥崎八幡宮が鎮座。

更には南のほう―ちょうど伽藍が山門を開く方角にあっては、見る者によれば威圧感すら伴うであろう巨大なる公営住宅群が幾棟も立ち並びその影を落とす。

数多の石仏が散在するその境内は、遥か悠遠の昔に発した歴史をそこに連綿と伝えながら、市街化の波に呑まれて久しい町々を静かに見据えながらにそこに在り続けている。

古記

境内に佇む日切地蔵の堂。『日切地蔵大菩薩』との額を掛けている。
境内に佇む日切地蔵の堂。『日切地蔵大菩薩』との額を掛けている。
境内の隅に佇む梵鐘と何らかの石像
境内の隅に佇む梵鐘と何らかの石像
伽藍の手前の離れに佇む墓地
伽藍の手前の離れに佇む墓地

筑前国続風土記

妙德寺 曹洞宗
今山と號す。禪寺也。馬出村にあり。千光國師榮西宋より歸り、始て住せし所といひ傳へたり。聖福寺營作の間、爰に住せしにや。馬出村の南に、寺中町と云傳へたる橫道有。是榮西妙德寺に在し時、宋より來りし從者の居たりし所と云。其後榮西聖福寺に移り、從者も今の聖福寺々中に移りしなるへし。榮西歸朝の後、箱崎に良辦と云者有。榮西の禪行を嫉て、叡山の講徒を誘ひ、朝廷に訴て竄遂せんとし、後に改悔て稱揚歸降せし事、元亨釋書にしるせり。此時の事なるへし。此寺の庭に、糸櫻の大木あり。寛永三年の春、光之公郊遊の次に駕を枉て、花を賞し給ふ。寺門の榮幸とす。

筑前国続風土記附録

妙德寺 カミマチ 禪宗洞家 佛堂五間六間
今山と號す。博多明光寺に屬せり。此寺の釣鐘は古へ境内の土中より掘出せしといふ。貞和二年の號あり。又此寺に古き文書の寫しを藏あり。寺内に鎭守社。觀音堂あり。又絲櫻の木ありしか、寛永の頃光之公郊遊の次(ついで)に此寺に入らせたまひ、花を賞したまひし事あり。しかとも、今ハ枯てなし。
○此寺と金平村との境に楠町(クスノキマチ)といふ田の字あり。楠田長者か別業の址と言。往古ハ楠の大木有しを、天文の頃大内義隆箱崎宮造營の料に伐れりとなん。楠田長者といふはさはかりの冨人なりしにや。

筑前国続風土記拾遺

妙徳寺
上町にあり。今山と号す。曹洞宗にて博多妙(明)光寺の末なり。葉上僧正を開祖とす。僧正の自作の像あり。長壹尺七八寸又如意鉄鉢木魚等あり。いつれも僧正の遺物也。此寺ハ筥崎大宮司の祖開基檀越也。其事大宮司蔵の古文書また當寺に蔵する所の大宮司重種の應永十六年八月の寄進状に見へたり。此外にも此寺に古證文数通あり。當村内に寺中町西堂なといふ名のあるはかの葉上の時の遺名なり。然れハ始は濟家なりしか、久しく中絶したりしによりて天性和尚應永の初に中興して洞家とはなりたるなり。かの大宮司重種の寄進状天性に當りたるあり。むかしの糸櫻古株より芽生出て頗繁茂せり。鎮守に稲荷社あり。寺傳曰、此社は建久二年辛亥初て建立開山千光國師の勸請にして當寺の鎮守也。いつれの時にか有けん。肥前國住人中村三河守元久といふ人の愛妾有。嫡妻の嫉妬に依て懐妊の妾を舩にのせ遠方に遣ハして殺さんとす。此妾の名を藤枝といへり。心中に八幡宮を祈けるか俄に風波あらく此浦に吹よせたり。舩人ども藤枝を憐ミ殺さすして爰に捨置けり。かくて藤枝其夜獨松原に捨られて出産す。この時白狐来りて介抱し我は八幡の仰にて汝を守護するそといひて夜明けれは白狐は失ぬ。終に恙なく男子をうめり。その後肥前より人尋来りてかの女子をつれかへる。其後三河守の使とて上田半左衛門と云者来りて稲荷神驗の事を語りて御供調進、祠堂の料として黄金壹葉流米百斛を捧けける。それより例となりて年毎に正五九月には代参のもの来りて神恩を拜謝せしとかや。是より此社を子安稲荷と稱するといへり。縁起に是も中興開山天性の時のことのよし見へたり。又此寺に寛暦三年に古鐘を掘出せり。其銘に
山門の向こうすぐ前方に影を落とし聳ゆ市営馬出住宅
山門の向こうすぐ前方に影を落とし聳ゆ市営馬出住宅
願諸賢聖 同人道場 願諸悪趣 倶時離苦 若人欲了知 三世一切佛 應當如是 観心造諸如来若人求佛恵通達菩提心父母所生身即證大覺位
不動院住持 快尊
豊後國 高國府 隆生寺 雲堂鐘
當伽藍佛国新成
阿弥栗多之利益三万年
法鐘早建
達磨駄都之濟度窮来際
貞和二年丙戌四月三日 鑄之
大工藤原友春
往時此丘尼真性
これを見れハ此鐘ハ其元ハ豊後國隆生寺といふに在し鐘なり。乱世に取来りて此寺に寄附せし物なるへし。此類國中に多し。

筑前名所図会

妙德寺 馬出村にあり
今山(こんさん)と號す、千光國師宋より歸り、初て住し給へ所といひ傳へたり 元亨釈書(けんかうしゃくしょ)に、箱崎に良弁といふ者あり、榮西の禪行を嫉て、叡山の講信を誘ひ、朝廷に訴て竄逐せんとし、後に稱揚歸依しける事を戴たり、即ち此時の事なるへし

所在

住所は福岡県福岡市東区馬出5丁目36番5号にて、電話番号は092-651-1560、最寄の電停は箱崎宮前駅。

資料