妙蓮寺 〔七宝山〕

福岡―筑後(ちくご)―久留米(くるめ)。安土桃山(あづちももやま)と呼ばれる時代からそこに歴史を刻み続ける一ヶ寺―妙蓮寺(みょうれんじ)というその寺は、七宝山との山号を称し、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊に拝しつつ、数多の寺々とともに歴史ある寺町(てらまち)を織り成している。

『浄土真宗 七寶山 妙蓮寺』 ~ 晩秋の寺町に開かれたその山門
『浄土真宗 七寶山 妙蓮寺』 ~ 晩秋の寺町に開かれたその山門

目次

歴史

七宝山―妙蓮寺の歴史は、江戸時代の開闢も間近に迫った安土桃山時代にあたる慶長元年(西暦1596年)―了珍(記録によっては了雲)という名の僧の開基で久留米の元町(現同市内城南町の祇園社付近)に開山したことに始まった。ちょうど毛利秀包(もうりひでかね)がこの地を治めていた時期である。

時代も江戸の世となった元和7年(西暦1621年)に新町というところの二丁目に移転。それから藩主も三代目の頼利(よりとし/有馬頼利)の時代に至って、明暦3年(西暦1657年)に寺地を拝領して現在地―寺町に再興された。

長きにわたった近世も終わりを迎えようとする頃―弘化2年(西暦1845年)には、他所から山門と庫裏が移され伽藍の一部となる。

やがて時も下って近代に入り、昭和3年(西暦1928年)、長らく在り続けてきた本堂が再建された。

伽藍

多様な宗旨の寺々が軒を連ねる久留米の寺町は、南北に走る一本の通りを軸に、大きく西(左)と東(右)に分かたれるという様相。心光寺浄顕寺誓行寺千栄禅寺、遍照院、少林寺医王寺、・・・こうした寺々がその左側を織り成し、宗安寺本泰寺真教寺西方寺妙正寺正覚寺妙善寺善福寺徳雲寺、・・・とこうした寺々がその右側を織り成し、ともに歴史ある寺町を形作る。

浄土真宗―妙蓮寺はこのうちの右側に伽藍を置いている。

西の方向に開かれたその山門は、横長の瓦屋根を葺き、宗旨と山号と寺号―『浄土真宗 七寶山 妙蓮寺』―を刻む石塔を携え、左右に燈籠を携えて参拝の者を迎え立つ。この山門は、元は田代守次(往代の藩財政方主宰)の下屋敷のものであったが、時の藩主―有馬頼永(ありまよりとう)によって同人が欠所処分にされた弘化2年(西暦1845年)に本寺に移築されてきた。

本堂
本堂

これをくぐって境内に入ると、左手に庫裏を見通り過ぎて、すぐさま反り返り屋根を据え葺く本堂に突き当たる。本堂と一体化しているこの庫裏は、山門に同じく、弘化の代に田代家から移築されたもので、元は同家の長屋であったという。

本堂の脇の小道は境内裏の墓地へと続く
本堂の脇の小道は境内裏の墓地へと続く

本堂の右脇と塀との間は墓地へと通ずる小道になっている。

墓碑

  • 井上南皐(-なんこう) [明善堂教官]
  • 井上碧桃(-へきとう) [明善堂教官]
  • 森三美 [洋画家] (久留米洋画壇の草分けで、青木繁や坂本繁二郎、松田諦晶らの師)
  • 川島惣助(山田屋一如) [金工家] (京都の後藤一乗の門下に入り、慶応3年に一如と号した。)

所在

住所は福岡県久留米市寺町75にて、電話番号は0942-33-7536、最寄の電停は櫛原駅。

資料