妙行寺 〔袖湊山〕

福岡県都―福岡市。妙行寺(みょうぎょうじ)―とそう号する浄土真宗東本願寺派―真宗大谷派のその一ヶ寺は、古の時代の博多の地に始まった歴史を今に伝えつつ、そして宗派の往古の高僧の遺話を今に伝えつつ、その山号を袖湊山と称して、この地の『野間』という町の一角に伽藍を置いている。

『袖湊山』―『妙行寺』―山号と寺号とを刻み大池の水面を見据える看板。
『袖湊山』―『妙行寺』―山号と寺号とを刻み大池の水面を見据える看板。

目次

歴史

興り

のちに栄える博多の町の中心部にあたる『冷泉』の地がまだ芦の繁る津であった時代・・・そこに『芦原道場』と呼ばれていた一宇の道場があった。

天台宗をその宗旨とした寺号も持たないただの道場―この『芦原道場』に住していたある僧が、室町時代のさなかにあたる明応年間(西暦1492年〜1501年)に大坂に赴き、そして当時の本願寺を率いていた蓮如の門徒になったことで、それまでの宗旨を改め浄土真宗に帰依した。

・・・かくして姿を変えた芦原道場は、その山号を『芦原山』と、その寺号を『妙行寺』とし、本願寺門下の一ヶ寺としての歴史を始動した。そうして今に至るこの寺―妙行寺のその歴史が始まったのであった。

西に向けて開かれたその山門
西に向けて開かれたその山門

衰亡と再興

理由は不詳ながらもいつしかその山号を『袖湊山』に改めた妙行寺は、享禄年間(西暦1528年〜1531年)にあって、本山の兼帯所として輪番の僧を迎えるようになり、この頃には宗派の九州の末寺の全てを支配するほどの繁栄を見た。

ところが時代も戦国の世を迎え、更に過ぎゆきて安土桃山と呼ばれる時期になると、その天正年間(西暦1573年〜1593年)に兵火を被り、伽藍のことごとくが焼け落ちて失われることになった。

かくして衰亡の危機を見た妙行寺であったが、その当時の糟屋郡三苫村―のちの福岡市東区三苫地内―に在していた願念という名の僧の手により、その火災の焼跡に残されていた本尊が拾い上げられた。しばらくの間をこの願念の家に保管されることになった本尊は、やがてこの願念によって博多の川口町に一宇の道場が構えられるに至り、その本尊に迎え上げられた。

そして肥後の菊池一族の者であったという仲言なる僧との協力のうえで、願念が本山からの本寺再興の旨の請願を取り寄せることに成功し、檀越を含む衆人らからの助成を得ることにまた成功し、ついに本堂の再建が成就の時を見るのである。

伽藍に鎮まるその本堂
伽藍に鎮まるその本堂

原田了栄という武将(高祖城主)の臣であった笠大炊助興長という人物のその末子にあたる彦兵衛という者を後継に据えた妙行寺は、それにてその寺伝において、かの仲言を中興とし、その名を従善と改めたこの彦兵衛を第2世と伝えるようになった。

中世から近世へ

中世もその幕を下ろそうとする頃―時代が織田信長の台頭を見て、後世に『石山合戦』と呼ばれることになる、本願寺史上に一際大きくその名を留める戦が元亀元年(西暦1570年)に勃発。戦に突入し時の門跡―顕如―が大坂に籠城している―かようの本山の状況を伝え聞いた従善―第2世住職―は、その戦場に馳せ参じたうえに、顕如からの感謝状を受け取るほどの勲功をそこで成すことになった。

『教如上人御遺跡』―境内に置かれた石塔。
『教如上人御遺跡』―境内に置かれた石塔。

やがてその顕如も文禄元年(西暦1592年)に没し、続けてその長男たる教如が本願寺の法主に就任すると、同時期に始められた朝鮮出兵のために、太閤―豊臣秀吉が肥前の名護屋城に在陣する。それに随行した時の法主―教如―が、その際に本寺―妙行寺を訪れ、その道中の宿として一泊。時の住職はかの従善の子で、第3世―教善。このときに教如より受け取った書簡がのちの世にまで伝えられることになった。

近世を越えて

時代が江戸の世を迎えると、そのまさに始まりの頃に、幕府の意図を背後に本山たる本願寺が東西に分かたれる。松安という者を時の住職に据えていた当時の妙行寺は、それらのうちの東―すなわち東本願寺に属することになった。

雲多き夏の日に鎮まるその境内
雲多き夏の日に鎮まるその境内

やがて太平の江戸時代を過ぎて近世もその幕を閉じ、時代も激動の末に近代へ。大正時代から昭和時代の初めにかけての頃には、その伽藍の前に古物商などの店々が軒を連ねて並び、博多の町に大層の彩りを加えていた。

ところが昭和に入りしばらくを過ぎて、第二次世界大戦の業火が世の空を照らす時代になると、のちに『福岡大空襲』として語り継がれることになる戦火が伽藍を襲い、大火とともに焼け落ちゆく博多の町とともについには焼失。

いつしかその大いなる鬼火の時代も過ぎ、世が高度経済成長と呼ばれる時代への移ろいを迎える頃―昭和30年(西暦1955年)という頃に、区画整理を背景として伽藍はそれ自体を持って大きく南下し、のちに福岡市南区となるところの野間へと移転した。古来からの歴史を刻んできた博多川口町の伽藍の地は、それをもって冷泉公園という大なる公園へと生まれ変わった。

かくして今に至る妙行寺。寺誌『福岡寺院探訪』の編纂期―昭和63年(西暦1988年)の11月〜平成2年(西暦1990年)の5月―で、その住職は第12世を数えた。

伽藍

その名の通り福岡市の内の南方のほうにあって多くの町々を擁する南区。『野間』という街区はこの区のほど中央部に位置して、ところどころに水と緑を湛えながらも、実に騒々しい―現代的な開発も進むところまで進んだ―そのような市街として今にある。

野間大池の水面に影を映すその大屋根と伽藍の森
野間大池の水面に影を映すその大屋根と伽藍の森

同じく南下を経て今にある極楽寺という浄土宗の一ヶ寺―それを擁する若久という街区・・・それと接する野間の町。

この寺―妙行寺のその伽藍は、この野間の町々の最も西のほうにあり、『野間大池』―そう呼ばれる大きな池の水面にその影を映す。

東西に走る『大池通り』という大車道の一角―ちょうど『野間大池前』という交差点から南方に向かって伸びる小車道。それに沿って広がる野間大池―その東脇に、ちょっとした『森』とも言えようほどの木々の繁茂する場所がある。その中には明らかに寺院のそれであることを思わせる大屋根が一角を覗かせる。

かの小車道からこの森へと東向きに伸びる小道を上がってゆくと、参拝者は『妙行寺西門』と書かれた格子の外門を見ることになる。これを入るとそこには駐車場が広がり、そして参拝者をその境内へといざなう大きな石段が現われる。

浄土真宗 東本願寺派 妙行寺』―宗派と寺号とをそう記した木の札を掛ける山門。瓦屋根のこの山門の向こうに更に石段が続き、そして参拝者はすぐにこの寺の本堂―大屋根を携える本堂と対面することになる。

本堂の右側には『寺務所』―そして『寺の風情』を留めようという努力が色濃く見られる庫裏。左側には二階建ての鐘楼が建ち、そのすぐ近くに『教如上人御遺跡』と刻まれた灰色の大きな石塔が佇む。教如上人―すなわち、かつてこの寺を訪れた本願寺第12代法主その人。

・・・かようにして在り、豊かな緑をたたえて高台の上に佇むその伽藍は、古来よりそこに血脈を継いできた多くの民々の営みを―そして訪れてはまた去りゆく多くの民々の営みを見据えつつ、変わりゆく町の姿を見据えつつ、今日の日もそこに在り続けている。

古記

筑前国続風土記附録

境内の北隅に佇むその鐘楼
境内の北隅に佇むその鐘楼
妙行寺 眞宗東 佛堂七間四面
袖湊山と號す。東本願寺に屬す。寺傳に、そのかミ冷泉津の邉蘆原なりし比、一宇の道場あり。天台宗にて寺號もなく、唯蘆原道場とのミいへり。明應の比、本願寺の蓮如上人大坂にて敎化せらる。此時宗門始て九州に行ハる。道場に住せし僧も、此事を傳え聞て大坂に登り、蓮如の門徒となりて宗旨を改め、蘆原山妙行寺と號す。其後故有て山號を袖湊山とあらたむ。此僧本寺に願ひて當寺を輪番とせり。本州及諸國の同宗の寺は、皆此輪番に來し僧支配せり。天正年中兵燹に罹りて什物等悉く焼失す。其時裏粕屋郡三苫村に在し願念と云僧、焼跡に殘りし本尊を奉持して己か草舎に安置せり。其後此所に道場を假に構へ、仲言と云僧 肥後國菊池の一族 住持たらしむ。此時門跡より檀越に當寺再興の事請れし書を、左證として遂に本堂成就す。兵亂の後にて輪番の僧も來さりしかは、原田の臣笠大炊助興長か末子彦兵衞と云者を後住とし、名を從善と改む。其比、織田信長公本願寺と不和なりしかは、門跡大坂に籠城す。從善馳登りて城中に力を合す。門跡悦て感状を與へらる。次の僧を敎善と云。文祿元年大閤名護屋御在陣の時、敎如上人大閤に候問の爲彼地に下向あり。當寺に一宿せらる。此時門跡の印書其家宰よりの書翰あり。慶長五年長政公御人國有し時、門跡より使者を差て贈り物あり。これを當寺に託して捧しむ。 如水公よりの御回翰の写しなりとて二通の書翰を藏せり。 慶長七年台命ありて關東及北國の同宗の寺は、敎如の門下に屬せしめ給へり。此時東西二派に分るといへとも、末寺は其心に任すへしとなり。住持松安たまたま在京して居たりしか東派に屬す。豫メ改派の事を相議せさりし故に、本州及其餘の末寺ハ、皆西門跡の直末寺となりしといふ。

筑前国続風土記拾遺

その梵鐘が北に見る『寺塚』の町々―真言宗般若院の屋根がのぞく。
その梵鐘が北に見る『寺塚』の町々―真言宗般若院の屋根がのぞく。
土居川口町 妙行寺
袖湊山と号す。真宗東本願寺に属せり。國中一派の觸頭なり。寺傳に始は天台宗にて蘆原道場といへり。 當昔冷泉津蘆原なる辺に在し故此名有といふ。 明應の比道場に住せし僧大坂に登り、本願寺蓮如上人の門徒となり改宗して蘆原山妙行寺と号す。其後故有て山号を改む。享禄中當寺本山の兼帯所として輪番の僧來り九國の末寺を支配せり。天正年中兵燹に罹り寺宇焼亡せしかは、糟屋郡三苫村の願念と云僧本尊を迎へて暫く己か家におき、さて舊地に假屋の道場を構へ本尊を安置し仲言と云僧 肥後國菊池の一族 相共に議りて、門跡より當寺再興の事を檀越へ催促の書を授かり、衆人の助成を得て漸本堂を再建す。此比兵亂の世にて輪番の僧も來らさりしかは、原田氏の臣笠大炊亮興長か末子彦兵衛と云者を以て後住とし名を從善と改む。依て仲言を當寺の中興とし從善を第二世とす。其比門跡は将軍信長公と不和にて大坂に籠城有しか從善馳登り城中に入勲功あり。門跡より感書を與へらる。三世を教善 從善か子 と云。文禄元年大閤肥前國名護屋御在陣の時、教如上人訊問として彼地に趣れし時博多に來り當寺に一宿あり。此度住持教善も教如に從ひて名護屋に至る。此時門跡より授かりし印書其家宰より出せる書翰今に傳はれり。慶長五年興雲公入國し給ふ時門跡より使者來り贈物あり。當寺に寄宿して事を行ふ。 此時如水公の回答写とて二通あり。 慶長七年真宗東西の両派に分れしか當寺の住持松安たまゝ在京して居たりしか東門跡の下に属す。此時末寺と豫め期せさりし故、末寺は皆西派の直參となれりといふ。

筑前国福岡区地誌

妙行寺
寺地東西三十七間七寸南北四十八間面積三百二十一坪墓地五百五十坪五合町ノ中央ニアリ袖湊山ト號ス眞宗東派本山京都本願寺ニ屬シテ中本山タリ寺傳に當昔冷泉津ノ邉蘆原ナリシ頃一宇ノ道塲アリ天台宗ニテ寺號モナク唯蘆原道塲トノミイヘリ明應ノ頃本願寺ノ蓮如上人大坂ニテ敎化セラル此時此宗門初テ九國ニ行ハル道塲ニ住セシ僧モ此事ヲ傳ヘ聞テ大坂ニ登リ蓮如ノ門徒トナリテ宗旨ヲ改メ蘆原山妙行寺ト號ス其後蘆原ノ字ヲ憚テ今ノ號ニ改ム享保中本山ヨリ兼帯ノ寺トナリ輪番ノ僧來リテ當國及ヒ諸國ノ末寺ヲ支配セリ天正年中兵燹ニ罹リテ寺宇什物等悉ク焼失セシカハ粕屋郡三苫村ノ僧願念燒跡ニ殘リシ本尊ヲ奉持シテ己カ草舎ニ安置セリ其後此所ニ道塲ヲ假ニ構ヘ仲言ト云僧(肥後菊池ノ一族)ヲ住持タラシム門跡ヨリ檀越ニ當寺再興ノ事ヲ請レシ書ヲ授カリ衆人ノ助成ヲ得テ遂ニ本堂ヲ再建ス此頃兵亂ノ世ニテ輪番ノ僧モ來ラサリシカハ怡土郡高祖ノ城主原田』了榮ノ臣笠大炊助興長カ末子彦兵衞ト云者流浪シテアリシヲ養ヒ弟子トシテ名ヲ從善ト改メ後住トス故ニ仲言ヲ當寺ノ中興トシ從善ヲ第二世トス織田信長公本願寺ト不和ニテ門跡大坂ニ籠城アリシ時従善馳登リテ城中ニ力ヲ合ス門跡悦テ感状ヲ與ラル(從善カ子還俗シテ商家トナリシ者アリ相續テ博多ニ住ス今笠氏ノ一黨是ナリ)其子ヲ敎善ト云文祿元年壬辰太閤名護屋在陣ノ時敎如上人候問ノ爲メ彼地ニ下向アリ博多ニ來リテ當寺ニ一宿セラル敎善モ門跡ニ從テ名護屋ニ至ル此時門跡ヨリ與ヘラレシ印書及ヒ其家宰ヨリノ書翰今ニ傳レリ(黑田長政入國ノ後門跡ヨリ使者ヲ差テ昔物ヲ贈ラル是ヲ當寺ノ託シテ贈ラレシ如水ヨリノ回翰ノ寫ナリトテ二通ノ書翰アリ)同七年壬寅德川家康公東本願寺ヲ興立セシメラレシ時命アリテ關東及ヒ北國ノ同宗寺ハ敎如ノ門下ニ屬セシメラル此時東西二派ニ分ルトイヘモ末寺ハ其心ニ任スヘシトアリシカ住持松安適在京中ニテ東門跡ノ下ニ屬ス豫メ改派ノ事ヲ相議セサリシ故ニ當國及ヒ其餘ノ末寺皆西派直參トナレリト云寺地ニ鐘樓アリ末寺(二)託乘寺(粕屋郡三苫村)蓮正寺(那珂郡屋形原村)

筑前名所図会

妙行寺ハ川口町にあり、何れの時の開基といふ事詳ならす、昔ハ天台宗ニテ蘆原道場(あしわらどうしやう)といひしとそ、眞宗東派にして袖湊山(しうそうさん)と號す、兵亂のために廢頽せしか、原田了榮か臣笠氏たる者僧となりて再興せりといふ

筑前国続風土記

妙行寺
袖湊山、川口町にあり。東本願寺に屬す。

所在

住所は福岡県福岡市南区野間4丁目33番にて、最寄の電停は西鉄天神大牟田線大橋駅または高宮駅。

資料