宗玖寺

福岡の地に遥か古からの歴史をたたえる博多の町。その市街の外れの“川向こう”の地に伽藍を据える日蓮宗のこの寺『宗玖寺』(そうきゅうじ)は、“弘行山”との山号を称し、往古の面影豊かな「馬出」(まいだし)の町に門を開けている。

ある晩秋の日の昼時にしかと開かれたその山門
ある晩秋の日の昼時にしかと開かれたその山門

目次

歴史

この寺―宗玖寺の起源については、各地誌において異説が見られる。

江戸時代の中期頃に編纂された『石城志』という地誌によれば、近世・江戸時代の初期にあたる元和の頃〔西暦1615〜1624年〕に、日親という僧が開基したことに始まった。

本堂
本堂

『筑前国福岡区地誌』の記す異説によれば、ほぼ同時期にあたる寛永元年(西暦1624年)に、本籌院日勢という僧が建立したことに始まった。

前出の『石城志』や『筑前国続風土記附録』によれば、当初の伽藍の立地が木村宗玖なる者の住居の跡であったことから、その名を取って寺号にしたのであったという。

近世には、博多の片土居町というところ〔のちの博多区下川端〕にあって、“知詮院”との院号を、そして“栄昌山”との山号を称し、千代町〔当時は“堀口村”と言った〕の法性寺に属し、その隠居寺としてあった。小さく貧しい寺であったそうで、副業としてか「山田振薬」という名の薬屋を輩出しもした。

一説によれば大正3年(西暦1914年)あるいは4年(西暦1915年)の頃、異説によれば昭和の初め頃にあたる第22世住職のときに馬出に移転。いつしか山号を“弘行山”に改めた。

福岡寺院探訪』の編纂の時期〔昭和63年(西暦1988年)の11月〜平成2年(西暦1990年)の5月〕でその住職は第24世であった。

伽藍

遥か古の代からの歴史を秘める博多の町。その東の外れに水面を湛える「石堂川」という流れのその名は、悠久の古都・太宰府の山間に発する流れ「御笠川」の異称。

博多の町からこの川を東方に渡ると、そこには「博多」の側とは空気をいささか―あるいは大きく―異にする町が広がる。“千代”(ちよ)との名を持つこの町の市街をさらに東のほうへと進むと、町は名を変え“馬出”と呼ばれる地へと移り変わってゆく。

弘行山・宗玖寺は、この馬出の町の深奥部ともいえようところの一角にあって、人通り多き街路の傍にささやかな伽藍を置いている。

本堂に隣接して建つ「宗玖寺会館」
本堂に隣接して建つ「宗玖寺会館」

おおよそ南の方角―車道に向かって開いた瓦葺きの山門。

手前左脇にはその宗旨と山号と寺号―「日蓮宗 弘行山 宗玖寺」―とを記した石塔。この門を入ると、右手に「宗玖寺会館」という門徒の集会場らしき建物を、左手に庫裏らしき家屋を見ながら、すぐさま大屋根を据える本堂が迎える。

伽藍から手前の車道を挟んだ向こう側はとある大学〔九州大学医学部および薬学部/歯学部〕の広大な敷地。すぐ東方には「市営馬出住宅」という巨大な公営住宅が幾棟も連なりその影を落とす。

境内のすぐ裏手に伽藍を置く「称名寺」という時宗の寺をはじめ、大光寺、松月院、翁別神社、妙徳寺、そして旧官幣大社・筥崎宮、・・・などなど、由緒深き古刹を含む数多の寺社が周囲に散在。

市街化の波に呑まれて久しくを過ぎた時を送る―様々な意味で―騒々しい、・・・とそんな町にあって、この地のその変わりゆく様を時代の変遷のうちに見てきたその伽藍は今日の日もまた―行き交う人々の傍に門を開き続けている。

古記

石城志

宗玖寺 法性寺末。
榮昌山と號す、片土居町に在。此寺、小庵にして食厨乏しかりしかば、福岡の士奥西氏、法性寺の檀家たるによりて、家傳の山田振藥の方を敎へ、是を世に廣めなば、茶堂の料にもなりぬべしとて、傳へけるにより、今に至りて所々より來り求むる者多しと云。此寺開基の時代は元和の頃なるべし。木村宗玖と云人、住せし跡なりとかや。

筑前国続風土記附録

宗玖寺 日蓮宗 佛堂六間四間半
榮昌山知詮院と號す。法性寺に屬す。日親上人の開基なり。年歴詳ならす。宗玖といひし者の來寓せし所に建たる故にかく名つくといふ。當寺より賣藥を出せり。山田振藥といふ。

筑前名所図会

宗玖寺(そうきうし)ハ片土居町にあり、法華宗也、大旦那を木村宗玖といひしとかや

筑前国続風土記

宗玖寺 榮昌山、屬法性寺。片土居町にあり。

所在

住所は福岡県福岡市東区馬出4丁目1番11号にて、電話番号は092-651-4396、最寄の電停は箱崎宮前駅または馬出九大病院前駅。

資料

  • 『石城志』 - 津田元顧/津田元貫
  • 『筑前国続風土記附録』 - 加藤一純/鷹取周成
  • 『筑前名所図会』 - 奥村玉蘭
  • 『筑前国続風土記』 - 貝原益軒
  • 福岡寺院探訪』:“宗玖寺”(p.39) - 今田正昭