専立寺 〔法光山〕

筑紫の遥か悠久の歴史と筑前福岡城下の歴史をともに今へと伝える福岡県都―福岡市。この地のまさに中心部たるところにあって、専立寺(せんりゅうじ)―そう号する浄土真宗のその寺は、同宗本願寺派の福岡教区福岡組に属しつつ、『法光山』との山号を称し、賑わいのうちに騒々しくすらある町の一角にあり小さな伽藍を置いている。

秋のある日の夕近き刻に佇む専立寺―その山門
秋のある日の夕近き刻に佇む専立寺―その山門

目次

歴史

この寺―専立寺のその起源については、典拠とする資料の別によって、少なくとも2つの説がある。

福岡寺院探訪』という寺誌によれば、原口と名乗る元武士の者が開基。のちの山口県にあたる地の出であったこの者は、筑前福岡藩主としてこの地に入った黒田公に随従する形で、岡山からこの地に来たのであったという。

もう一説においては、同寺誌の挙げる『福岡県寺院沿革史』という資料によれば、この寺の歴史は近世―江戸時代の初期にあたる慶長16年(西暦1611年)に始まった。この説にあっては、高祖城―のちの福岡県前原市高祖にあった山城―の主であった原田隆種のその孫にあたる忍西という者が開基。原田種門の子であったこの者が薬院町に創立したという。

いずれにしてもしばらくの時を福岡の町の薬院―現在地からいささか西方に位置するところ―に刻んでいたこの寺は、寛永7年(西暦1630年)という頃―警固神社という宮のその地への遷座の後に、同地にあった妙徳寺とともに春吉(はるよし)―現在地―へと移ることになった。(寺の口伝によればその移設は元禄か宝永の代にあたる西暦1700年頃であったという)

寛永9年(西暦1632年)に本山に仰ぐ西本願寺から木仏と寺号の使用を許可され、それより近世を越えて変わらず春吉の町に在り続けてきた。

福岡寺院探訪』の編纂期―昭和63年(西暦1988年)の11月〜平成2年(西暦1990年)の5月―でその住職は17世を数えた。

伽藍

脊振の高峰に連なる山々を背後に仰ぎ見る那珂川町のその深奥部に源流を湛える二級河川―那珂川。この流れが博多湾の霊妙なる溜まりに注ぎ込もうとするとき―その西岸に広がる市街こそ、筑前福岡の町の後裔にあたる中央区の町々。

春吉の町を貫く『寺町通り』―そう呼ばれる車道に面して並ぶ寺々~妙徳寺・・・専立寺・・・建立寺。
春吉の町を貫く『寺町通り』―そう呼ばれる車道に面して並ぶ寺々~妙徳寺・・・専立寺・・・建立寺

『春吉』と呼ばれる一帯は、那珂川に架かる『灘の川橋』と『春吉橋』という二橋梁のちょうど間のところに広がり、その東の対岸に実に由緒深き住吉神社という名社を見据える。

法光山―専立寺のその伽藍は、この『春吉』の一角―往古に『寺町』と謳われた場所に位置し、町を南北に走る車道に面して山門を開いている。

やや北に向きつつ東の方角に向けて開いた、瓦屋根を葺き、柱に宗旨と宗派と寺号―『浄土真宗 本願寺派 専立寺』―とを書いた札を掛ける山門。寺の口伝によれば、これは博多の町の『川向こう』に鎮座する太古の宮―筥崎宮から移されてきたものであるという。

夕の陽光のもとに鎮まる本堂
夕の陽光のもとに鎮まる本堂

これをくぐった参拝者は、すぐに住職一家の住まいたる庫裏に突き当たった末に、左手に回り大屋根を据える本堂と対面することになる。

簡素にして特に目立つ事物は見られない境内。外に見ることのできぬこの寺の鐘は、本堂の右脇に位置する庫裏の内に納められている。それは平成2年(西暦1990年)に海の向こうの異国―大韓民国の西願寺という寺から贈られたもので、それが所以でか『日韓友好の鐘』などと謳っている。

そしてどうしたわけか、その大韓民国や更なる遥か遠方の異国―ドイツやイスラエルといった国々からの訪問者を迎えてもいるという。

南で同宗の妙徳寺と隣接し、北で同宗の建立寺と隣接―かくして二ヶ寺に挟まれた状態にあるその伽藍は、開発の先の市街化のうちに美観を大きく損ねて久しい歴史ある町の一角にあって、行き交う人々の賑わいの声を聞きつつ、今日も喧騒のうちに静かに在り続けている。

古記録

筑前国続風土記附録

專立寺 テラマチ 眞宗西 佛堂五間三間半
法光山と號す。西本願寺に屬す。寛永九年木佛寺號を許さる。此寺も初め藥院に有しを警固神社遷座の時、今の地に移されしといへり。

筑前国続風土記拾遺

専立寺
寺町に在。西本願寺に属す。始ハ藥院にありしか警固社を遷されし時こゝに遷せしと云。

筑前名所図会

專立寺
眞宗なり。 妙德寺の西にあり

所在

住所は福岡県福岡市中央区渡辺通5丁目7番26号にて、電話番号は092-761-2282、最寄の電停は西鉄福岡駅。

資料