心光寺 〔普照山〕

福岡県の南部は筑後(ちくご)の地を貫流する筑後川。かくも大いなるその流れを見据える久留米(くるめ)の町は、その往代―城下であった時代の名残をところどころに留める。心光寺(しんこうじ)―山号を普照山という浄土宗のその一ヶ寺は、阿弥陀如来(あみだにょらい)をその本尊に据え、軒を連ねる数多の寺々とともに寺町(てらまち)を織り成している。

『浄土宗 心光寺』 ~ 晩秋の寺町に開かれたその三門
『浄土宗 心光寺』 ~ 晩秋の寺町に開かれたその三門

目次

歴史

本寺―心光寺のその歴史は、江戸時代のその初期にあたる頃―乗誉という名の僧が開山したことに始まる。やがて2世住職の代―正保3年(西暦1646年)に有馬忠頼(ありまただより/二代目久留米藩主)から寺地を拝領、寺町に堂宇を建立した。

それからしばらくの時を下り、第8世の時代に常念仏を始める。それ以後、藩主から常念仏料として百俵を付与された。

近世も末期に迫る頃―弘化2年(西暦1845年)には本堂が建てられる。近代に入り明治5年(西暦1872年)には近隣の神社から不動明王の像が移され、それから40年後の明治45年(西暦1912年)にその堂が再建された。

それまで下寺に西光寺という元時宗の寺があったが、昭和6年(西暦1931年)に至って併合。昭和35年(西暦1960年)には、前出の不動明王を収めるための不動堂が寄付される。弘化の代に建てられた本堂は昭和の終わり頃まで残っていたが、昭和48年(西暦1973年)に至って再建されることとなった。

歴代住職

『心光寺歴代上人―開山一蓮社乗誉上人暮往大和尚』...
『心光寺歴代上人―開山一蓮社乗誉上人暮往大和尚』...

初代:一蓮社乗誉暮往/2世:真誉/3世:綽誉/4世:風誉/5世:高誉/6世:称誉/7世:恢誉/8世:當誉/9世:才誉/10世:恭誉/11世:念誉/12世:運誉/13世:観誉/14世:演誉/15世:鸞誉/16世:念誉/17世:浄誉澄善/18世:澄誉良彰/19世:猛誉碩翁/20世:光誉信善/21世:学誉賢進/22世:勇誉学翁

伽藍

久留米の町の市街の中心部からほど近いところに一画を占める寺町。そこにはそれぞれの背景を持って集まってきた、それぞれ多様な宗旨の数多の寺が軒を連ねる。

そのなかにあって、浄土宗の本寺―心光寺は、徳雲寺善福寺、遍照院、少林寺医王寺妙善寺千栄禅寺正覚寺妙蓮寺妙正寺誓行寺西方寺浄顕寺真教寺、・・・こうした寺々の密集する区画とはいささかばかり離れたところ―車道を挟んだ南の向こう側にある『寺町の外れ』と言えよう一角に、本泰寺宗安寺という二寺と接して伽藍を置いている。

本堂
本堂

その片方の柱に宗旨と寺号―『浄土宗 心光寺』―とを刻む、東に向けて開かれた三門。手前に燈籠を携えるこの三門を入ればすぐさま大屋根を葺いた建造物―昭和48年(西暦1973年)に再建された本堂に突き当たる。

本堂の手前を左折すると、庫裏の入口などを過ぎて、その奥のほうに何かあるのを参拝の者は見つけるだろう。そこにあるのは2つの堂―不動を安置する不動堂と、観音を安置する観音堂。時代とともにこの寺に生まれたこれら2つの堂は、それぞれの背景をもとにここにやってきた歴史ある本尊を収める。

不動堂

この堂が内に安置する本尊は、その文字通り不動明王(ふどうみょうおう)―有馬頼元(ありまよりもと/四代目久留米藩主)の生母(貞昌院)が寄進したもので、頼元の息災を願って彫られた等身大の不動明王である。

『大聖不動明王』
『大聖不動明王』

元は今町(いままち/おそらくは同市内津福今町)の不動社(琴平社とも呼ばれる神社で、同市内篠山町の祇園社、瀬下町の水天宮と並んで藩主参詣三社の一)にあったが、明治に発された神仏分離令に伴って明治5年(西暦1872年)にこの寺に移されてきた。

しばらくは高良社(こうらしゃ/おそらくは筑後国一宮の高良大社)から移した堂に収めていたが、國武氏(地元の有志であろう)を筆頭とする500名の協力で明治45年(西暦1912年)に新たな堂が再建される。時も下って昭和35年(西暦1960年)に牛島氏(同じく地元の有志であろう)が現在の堂を寄付した。

その本尊には『子の日権現(ねのひじり ごんげん)』と呼ばれる脇侍が立つ。これは江戸の増上寺(ぞうじょうじ/浄土宗鎮西派大本山)から庄島の観音寺(おそらくは同市内荘島町のことであろうが、今にそのような寺は残っていないようである。)に贈られたもので、盛徳院(七代目久留米藩主有馬頼徸の生母)がその寺に寄付した堂に安置されていた。それが時も下った明治2年(西暦1869〜1870年内)に本寺に遷座し、こうして新たに祀られたのである。

観音堂

不動堂のすぐそばにあるこの堂は、『楊柳観音(ようりゅうかんのん)』という観音をその本尊として安置する。丈五尺八寸にして膝下に焼痕状の何かが見られる像で、明代中国(西暦1368〜1644年)の蓮池なる大師の彫刻とされるものであるという。

『楊柳観世音菩薩』
『楊柳観世音菩薩』

この像は元は島原(しまばら/長崎)の温泉岳(うんぜんだけ/雲仙岳の古称)の麓に祀られていた。しかるに寛政4年(西暦1792年)の大噴火による大山崩れのために海上に漂流。いつしか北有馬村の民に拾われて尊崇されていた。

これを13代住職の観誉が譲り受け、下寺の西光寺の境内に祀った。やがて明治42年(西暦1909年)に国武喜次郎なる人によって堂宇が再建され、西光寺を併合した昭和6年(西暦1931年)に境内に移転。かくして今の姿に至っている。毎月17日が縁日。

寺宝

  • 『山水人物三幅対』 筆;狩野探幽
  • 『寒山拾得』 筆;曽我繭白

墓碑

  • 青木一族 [久留米藩刀工]
  • 一寺一石供養塔(高良山から移されてきたもの)
  • 半田門吾 [俳人] 辞世 『月なくも心を照らす念仏かな』

所在

住所は福岡県久留米市寺町1にて、電話番号は0942-32-2332、最寄の電停は櫛原駅。

資料