本泰寺 〔法栄山〕

福岡県の南部は久留米(くるめ)の町の一角に伽藍を置く、法栄山―安住院―本泰寺(ほんたいじ)というその寺は、安房(あわ)の国の生みし怪僧―日蓮(にちれん)をその宗祖に仰ぐ日蓮宗(にちれんしゅう)の一ヶ寺。遠く近畿の地より連なる歴史をたたえる本泰寺は、市の有形文化財ともなった由緒ある門を携え、軒を連ねる数多の寺々とともに寺町(てらまち)を形作る。

晩秋の日の寺町に門を開く本泰寺
晩秋の日の寺町に門を開く本泰寺

目次

歴史

時は近世を終えて江戸時代がその幕を開けた頃―安住院日就という者(開山ののちは柳川に居を定めた)が開基したことで本泰寺の歴史は始まった。

伝えによれば、元は丹波(たんば)の福知山(ふくちやま―現京都府福知山市内)にあり、その地を治めた有馬氏の祈願寺であった。やがて戦国の世も終わりを迎え、有馬豊氏(ありまとようじ/初代久留米藩主)が久留米に転封。その際に本寺も随従し、現在地に移転した。これが元和7年(西暦1621年)のことで、この年をもって創立の時としている。

以前は顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)の寺で、京都の妙満寺(顕本法華宗の大本山[1])の末寺であった。(各資料とも『以前は・・・』としているが、文脈から見てもどの時点からの『以前』なのかの特定は困難である。おそらくは資料の少なさからくる苦肉の誤魔化しなのであろう。)

近世には4世住職の日逞の代に栄え、元禄年間(西暦1688〜1704年)には平唐門(ひらからもん)の様式を持つ山門が建造され、慶応元年(西暦1865年)には本堂が再建される。

やがて長きに渡った太平の時代も終焉を向かえ、近代へ。時も下って平成9年(西暦1997年)に本堂が再建された。これすなわち今に残る本堂である。

伽藍

筑後久留米藩の城下町―その歴史の名残をところどころに留める久留米の町。宗旨も様々の数多の寺々が軒を連ねる寺町は、都市化の波に呑まれて久しい市街の中心部からほど近いところにその一画を占める。

〒830-0014―『福岡県久留米市寺町』として正式な住所ともなったこの町は、南北に走る一本の通りを軸に、大きく右(東)と左(西)に分かたれる。本泰寺はその右側に属し、更にそのうちの南の『外れ』と言えようところに伽藍を置いている。

元禄の時代からその伽藍に在り続けてきた山門 ~ 久留米市指定有形文化財
元禄の時代からその伽藍に在り続けてきた山門 ~ 久留米市指定有形文化財

市内を縦貫する大通り―国道3号。その一角から西へと延びる車道と、この寺町の軸となっている小道。ちょうどこれらが交差する地点の南傍にあり、本泰寺はその山門を―鮮やかな朱色の山門を西の方角に向けて開く。元禄年間(西暦1688〜1704年)に建築されたこの山門は名門と言われ、その高さおおよそ3.8m、その幅おおよそ3m。山門としては珍しいという丸みを帯びたその屋根は、本瓦葺きにして『平唐門(ひらからもん)』と呼ばれる様式―唐門(からもん)の一様式[2]のもので、平成12年(西暦2000年)の2月24日をもって久留米市の有形文化財に指定されている。

本堂
本堂

手前に墓のようなものを携えるこの山門を入れば、すぐさまその本尊を収める本堂―宝塔(ほうとう)、釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)などを『一塔両尊四士』の様式にて奉安する本堂に突き当たる。

寺宝は釈迦涅槃図(しゃかねはん-)。加えて伽藍には不破見作(ふわみまさか―不破真寛ともいい、『開明的執政』と言われた幕末の佐幕派。慶応4年(西暦1868年)に路上で襲われ殉難[3]。)の墓碑があるという。山門の手前にある墓のようなものがそれなのであろうか。

南隣は宗安寺、その西隣は心光寺。山門前の通りを北上すれば、この寺町を形作る寺々のうちの多くが密集する場所へと入ってゆく。真教寺浄顕寺西方寺誓行寺妙正寺妙蓮寺正覚寺千栄禅寺妙善寺善福寺徳雲寺、遍照院、少林寺医王寺、...。

所在

住所は福岡県久留米市寺町4-1にて、電話番号は0942-33-6327、最寄の電停は櫛原駅。

資料