極楽寺 〔清光山〕

遥か悠遠の昔に発する筑紫の歴史と筑前の歴史とを今に伝える福岡県都―福岡市。その内の『若久』という名の町に伽藍を据える浄土宗の寺院―極楽寺(ごくらくじ)というその一ヶ寺は、『清光山』との山号とともに、戦国の代がもうすぐ幕を開けようという頃に発した歴史を伝えながらに佇んでいる。

『極楽寺』―夏の終わりの雲多きある日に閉ざされたその門。
『極楽寺』―夏の終わりの雲多きある日に閉ざされたその門。

目次

歴史

この寺―極楽寺のその歴史は、『福岡寺院探訪』という寺誌の挙げる『境内の碑に記された縁起』によれば、室町時代の後期にあたる永正年間(西暦1504年〜1521年)に、『筑前国福岡区地誌』という史料によれば、同時代中の永禄年間(西暦1558年〜1569年)に始まった。

『筑前三大地誌』の一に挙げられる『筑前国続風土記拾遺』によれば、日本史のうちに名のある武将―小早川隆景によって名島という地―のちの同市東区名島―に建立されたその一ヶ寺は、念誉行明という僧を招いたうえでの開山となった。この僧がいたのが鞍手郡宮田村―のちの宮若市宮田―の極楽寺という寺―寺号の由来はこれであった。 『筑前国福岡区地誌』の示す異説は、開山を念誉行明としつつも、その後しばらくのうちに廃れたこの寺を再建したのが小早川隆景であると記す。

それからしばらくの時を下って近世の幕開け迫る頃―慶長6年(西暦1601年)に、福岡藩初代藩主黒田長政の命によって福岡の地に移設。移転先の地一帯を極楽寺町と言うようになった。この時に天誉という僧が新たな開基の僧として関わったようで、『筑前国続風土記』の『拾遺』および『附録』はこの僧を開山の僧としている。 『筑前国福岡区地誌』の示す異説は、小早川隆景による再建の時に宮田村の極楽寺から招いた僧が天誉であったと記す。

正保2年(西暦1645年)には黒田忠之(福岡藩第2代藩主)の妹たる清光院殿の仮墓を寺内に築き、その霊牌を安置。これによって、それまで果還山と称していた山号を清光山へと改め、旧山号は院号―果還院―として後世に残ることになった。黒田忠之から五十石の寄附があったという。

粕屋郡南里村―のちの糟屋郡志免町南里の内―観音寺と同郡別府村―のちの糟屋郡志免町別府の内―正覚寺と早良郡原村―のちの同市早良区原の内―の宝樹院と同郡野方村―のちの同市西区野方の内―本願寺を末寺に持ち、京都の知恩院の末寺としてあった近世―。

そうした時代も幕を閉じ、やがて近代へ。昭和45年(西暦1970年)をもって伽藍は大きく南下し、本堂の再建とともに現在地―福岡市南区若久―へと移った。『福岡寺院探訪』という寺誌の編纂期―昭和63年(西暦1988年)の11月〜平成2年(西暦1990年)の5月―でその住職は28世を数えた。

伽藍

福岡県のほど中央部にあり、その名の通り、福岡市のほど南部に位置する区―南区。

若久(わかひさ)という街区はこの区のうちの更にほど中央部―市街化の進んで久しい町の一角にあり、その4丁目に位置する若久小学校という市立の小学校の敷地のその傍ら・・・極楽寺はそこに伽藍を置いている。

納骨堂のような造りを持つその本堂
納骨堂のような造りを持つその本堂

野間自動車教習所・・・大戸池・・・めぐり坂池・・・住吉神社・・・稲荷神社・・・そして若久小学校。こうした事物を四方八方に見据える小さな一角。これらのうちの自動車教習所の向こうには、同じく南下を経てこの地にやってきた妙行寺という真宗の寺の伽藍とその森が佇む。

民家の連なる住宅街のさなかにあって、細き車道に面して置かれた極楽寺の伽藍は、南の方角に向けて山門も無き門を置いている。その向こうに建つのが『無量壽』と書かれた板を前方に掲げる本堂。

本堂の脇に佇む庫裏
本堂の脇に佇む庫裏

その境内は極めて簡素にあり、住職の住まいたる庫裏が本堂の右脇に位置している。

内に地蔵堂ありとの描写が古記録群に見られるものの、少なくとも今の外から可視なる場所にそのような事物は見られない。あるのは門のすぐ近く―『南無阿弥陀佛』と刻んだ石塔とその脇の石仏のみである。

寺というよりは―民家に即席で造成した新興宗教の施設を思わせもするその外観。そんな伽藍全体の外観において、おそらく参拝者のその多くは、かの名高い武将や旧藩主らの逸話を秘める一ヶ寺としての『荘厳さ』のようなものを感じることはないであろう。

いずれにしても―中世からの長き歴史を渡りて残った極楽寺は、市街化のうちに美観を大きく失ってきた町のさなかで、今日も静かに伽藍を携え時を過ごしている。

古記録

『南無阿弥陀佛』―そう刻む石塔と草陰に佇む石仏。
『南無阿弥陀佛』―そう刻む石塔と草陰に佇む石仏。

筑前国続風土記拾遺

極樂寺
清光山果還院と号す。 此寺ある故に極樂寺丁といふ。 浄土宗鎮西派京都智恩院に属せり。開山を天譽といふ。此寺始ハ名嶋にあり。 小早川隆景一寺を建立有て、鞍手郡宮田村極樂寺の行明上人を招き開山とす。因て又極樂寺と号せしよし本編に見ゆ。 慶長六年興雲公の命に依て爰に移せり。當昔は山号を果還 寺説潮海 と称せしか、正保二年清光院殿 高樹公の御妹池田輝興室 の假墓を寺内に築き、且霊牌を安置し給ひけれは、山号を清光山に改む。 詳に本編に出 高樹公五十石の寺産を寄附し給ふ御判物。
寄附一〇那珂郡住吉村内一〇五拾石地宛行畢。全可寺領者也。
正保貮年
六月十四日 忠之御判
極樂寺
後年清光院殿の霊屋の内に、珠光院童子 輝興児早世 の位牌をも置、月拜并施餓鬼の料米を寄納し給ふ。元禄十五年八世底譽といふ僧發起にて、常念佛執行を願ひけれは、許容有て宝永三年霊源公の命を奉り、宰臣より報せし書札あり。又奉行人数輩連署の證文あり。本尊弥陀の座像 長五尺 も底譽か時彫刻せしと云。寺内に地蔵堂あり。什物に唐刻の普門品一冊あり。經文の間に観音三十二相の図をましへ、所々に書写摸刻せし人の姓名をも識せり。其跋に大康熈辛酉之秋厥工告峻武林陣延齢沐手拜書と有。辛酉ハ皇國の天和元年なり。又臘石にて彫刻せる羅漢十八軀あり。奇工なり。作者詳ならす。

筑前国続風土記附録

極樂寺 ゴクラクジノ町 淨土宗鎭西派 佛堂九間四面
淸光山杲還院と號す。京都知恩院に屬す。本尊は丈六の彌陀、當寺八世の僧底譽これを創立せり。 開山を天譽といふ。此寺始は名嶋に有しを、慶長六年 長政公の命によりて寺をこゝに移す。其始の 山號を杲還(こうかん)山といひしか、正保二年淸光院殿 忠之公御妹 の菩提所とし て、假墓をも築き位牌を安置し給ふ。此時山號を淸光山と改らる。五拾石の寺産を寄給ふ。忠之公の 御判物あり。其後淸光院殿の御靈屋の内に、大凉院殿・光珠院殿の位牌をも安置し、月牌・施餓鬼(せがき)料米をも寄納し給ふ。また元祿年中、底譽と云僧、常念佛執行を願ひし時、綱正公の命を奉て宰臣より與へし書證文あり。寺内に淸光院殿天譽珠英大法尼の假墓有。地藏堂あり。什物に唐刻の觀音經二冊あり。普門品にして觀音三十二相の圖あり。鮑承勤子天錫鐫弟子陳延齢敬刻弟子孫枝秀敬寫と記す。年月詳ならす。又臈石にて彫刻せる十六羅漢 十八軀なり 有。奇工なり。作者詳ならす。

筑前国福岡区地誌

極樂寺
寺地東西四十七間三尺南北五十八間面積四百九拾二坪二合墓地八百四拾三坪町ノ西北ニアリ淸光山果還院ト號ス淨土宗鎭西派本山京都智恩院ニ屬シテ中本山タリ此寺初メハ粕屋郡名島村ニアリ永禄中に創立ス開山ヲ念譽行明ト云其後中廢セシヲ小早川隆景再建アリテ鞍手郡宮田村極樂寺ノ住僧天譽ヲ招キ開山トセラル因テ又極樂寺ト號ス慶長六年辛丑黑田長政ノ命ニヨリテ爰ニ移セリ昔ハ山號ヲ果還山ト稱ス正保二年乙酉黑田忠之ノ妹淸光院(池田右近大夫輝興室)江戸ニテ卒シ其假墓ヲ此寺ニ築キ位牌ヲモ安置セシヨリ淸光山ト改ム忠之ヨリ那珂郡住吉村ノ内ニテ五拾石ノ寺産ヲ寄附セリ元禄十五年壬午八世底譽ト云僧ノ發起ニテ常念佛執行ヲ請ヒケレハ寶永三年丙戍黑田綱正ヨリ許容アリ末寺(四)觀音寺(粕屋郡南里村)正覺寺(同郡別府村)寶樹院(早良郡原村)本願寺(同郡野方村)

所在

住所は福岡県福岡市南区若久4丁目14番1号にて、電話番号は092-541-3538、最寄の電停は大橋駅または高宮駅。

資料

  • 福岡寺院探訪』 P.126-127 ”極楽寺” - 今田正昭
  • 『筑前国続風土記拾遺』 - 青柳種信
  • 『筑前国続風土記附録』 - 加藤一純/鷹取周成
  • 『筑前国福岡区地誌』>極樂寺町>寺 - 三原恕平