正光寺 〔真如山〕

福岡県都・福岡市。博多の悠久の歴史をたたえる博多区の一角にあり、浄土真宗本願寺派にして“真如山”との山号を称するこの一ヶ寺『正光寺』(しょうこうじ)は、近世初めの頃に発する歴史を今に刻みつつ、車影の往来の絶えぬところに伽藍を置いている。

閉ざされたその山門と冬の日の午後の陽光に沈む伽藍
閉ざされたその山門と冬の日の午後の陽光に沈む伽藍

目次

歴史

かつてこの地に宝順という名の僧がいた。肥後国〔のちの熊本県内〕の出であったこの僧は、元は“柴田源右衛門正光”〔または“柴田源太夫正光”〕と名乗った人物で、この寺の縁起によれば、豊前国・中津〔のちの大分県中津市内〕の黒田孝高という戦国武将の臣であったという。

この柴田正光が仏門に入ったのが天正16年(西暦1588年)のことで、その名を宝順と改めたのが筑前国にやってきたとき―ちょうど慶長の頃のことであった。

やがて宝順は一宇の堂を博多の辻堂町〔出来町ともいい、現在の博多駅のすぐそば〕に建立した。これが慶長10年(西暦1605年)のことで、自らの名を用いてその堂の寺号とした。ここに正光寺の歴史が始まった。

その山門と石塔「浄土真宗 真如山 正光寺」
その山門と石塔「浄土真宗 真如山 正光寺」

それからちょうど百年の時を経て宝永3年(西暦1706年)に焼失。これをもってかその後に春吉村〔のちの同市内中央区春吉〕に移転したが、嘉永3年(西暦1850年)に再び焼失の憂き目を見て、雲霓という、中興の祖たる第9世の住職により本堂が再建されるに至った。

時も下った昭和39年(西暦1964年)に現所在地へ移転。『福岡寺院探訪』という寺誌の編纂期〔昭和63年(西暦1988年)の11月から平成2年(西暦1990年)の5月までの間〕でその住職は13世を数えた。

伽藍

博多区の南の外れから北へ博多駅の界隈までを結ぶ車道。通称「筑紫通り」。その南の終点に近きところ―筑紫通りが線路を越えようと宙に盛り上がる地点にあって、正光寺はちょうどその脇の一角に伽藍を据えている。

山門の手前に寺号を刻む一柱の石塔〔昭和53年(西暦1978年)の建立〕を据え置き、その境内は梵鐘、庫裏、そして本堂・・・と、世の数多の寺に一般的な事物を有するのみ。

境内の左隣には麦野公園という小さな公園があり、境内の右隣には、本寺の運営によるものであろう『正光寺ひかり幼稚園』という、浄土真宗本願寺派保育連盟加盟の幼稚園が位置している。この幼稚園は昭和40年(西暦1965年)に開設したものであるという。

日中でも山門を閉ざしていることがある。

古記録

筑前国続風土記拾遺

正光寺
四番町の東に在。一向宗博多万行寺の末なり。始は博多辻堂に在しを後今の所に移すと云。

筑前国続風土記附録

正光寺 四番町上 眞宗西 佛堂二間三間
博多萬行寺に屬す。開基ハ肥後國の産柴田源太夫正光と言者、慶長の頃本州に來りしか、世を遁て寶順と改名し、博多辻堂町に一宇を建立し、己か名を用ひて寺號とすと言。後に此所に移す。

所在

住所は福岡県福岡市博多区三筑2丁目31-1。最寄の電停は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。ほど近くに、福岡市立三筑小学校同市立三筑中学校、金光教雑餉教会などがある。

資料