真教寺 〔清涼山〕

福岡県のその南部―久留米(くるめ)の寺町(てらまち)の一角に伽藍を据える真宗大谷派(しんしゅうおおたには)の一ヶ寺、真教寺(しんきょうじ)は、山号を清涼山と称し、阿弥陀如来(あみだにょらい)をその本尊に拝し、戦国時代前からの歴史をそこに刻み続けている。

晩秋の陽光の下に鎮まるその本堂と多宝塔
晩秋の陽光の下に鎮まるその本堂と多宝塔

目次

歴史

真教寺の歴史は、ちょうど戦国時代(西暦おおよそ1493〜1573年)に入ろうとする頃、善西という人によって、御井郡(みい-)の仁王丸村(におうまる-)―のちの北野町仁王丸―に道場として創建された延徳3年(西暦1491年)に始まった。

更に安土桃山時代(西暦おおよそ1568〜1600年)から江戸時代(西暦おおよそ1600〜1867年)へとうつろいゆく頃、当時の柳川城(やながわ-)の主であった田中吉政(たなかよしまさ)の手により久留米の元町なるところに移される。これが慶長8年(西暦1603年)のことで、教専という6代目の住職の頃にあたり、その元町のうちのその移転のところは、今の城南町(じょうなんまち)―現所在地から西の方角にある町―の祇園社の鎮座地のあたりであった。この頃の本寺は田中氏の菩提寺であったという。

7代目住職の善海の時代にあたる元和7年(西暦1621年)には、当時の久留米藩主―同藩の初代藩主でもある―の有馬豊氏(ありまとようじ)から寺地を拝領し、現所在地の寺町に移転した。この際には有馬豊氏により久留米城内の座敷が与えられたという。

真教寺はかくして今に至り、真宗大谷派の一ヶ寺として寺町の一角にあり続けている。

伽藍

市街を貫く大通りから延びる脇道に佇む寺町。

宗安寺(浄土宗)、心光寺(浄土宗)、本泰寺(日蓮宗)、浄顕寺(浄土真宗)、西方寺(浄土宗)、誓行寺(浄土真宗)、妙正寺(日蓮宗)、妙蓮寺(浄土真宗)、正覚寺(曹洞宗)、千栄寺(曹洞宗)、妙善寺(日蓮宗)、善福寺(浄土宗)、遍照院(真言宗)、少林寺(臨済宗)、医王寺(真言宗)、徳雲寺(臨済宗)、・・・その名の通り、数多の寺々が軒を連ねるこの町の一角で、真教寺はその山門を西のほうに向けて開いている。

寺町に開かれたその山門
寺町に開かれたその山門

鐘楼を脇に据える山門を入れば、すぐさまその本堂が参拝の者を迎える。これは元禄14年(西暦1701年)に再建され、更に寛政3年(西暦1791年)に再建されたというもので、久留米藩の御用絵師であった狩野永就の筆による花鳥画をその格天井に60点ほど置いており、ここ寺町の寺院群のなかで最も古い建築であるという。手前に携える一対の燈篭は、その銘によれば、享保14年(西暦1729年)に建立され、文政10年(西暦1827/1828年)に再興されたものである。

境内に置かれたその鐘楼
境内に置かれたその鐘楼

本堂の右手には庫裏、そして本堂よりも高い多宝塔(たほうとう)を突き出す納骨堂らしき建物が左手に建つ。この建物は廊下で本堂と繋がっており、その廊下の下をくぐった奥は墓地となっている。明善堂(久留米藩の藩校)の創健社にしてその教授であった樺島石梁(かばしませきりょう)、その師にして修道館(久留米藩の学問所)の教官であった宮原南陸、神陰流(しんかげりゅう)の剣術家であった加藤田平八郎・大介父子、学者であった森嘉膳などの墓所となっている場所である。

そのほか、開基の頃の年代が記された地蔵、延徳年中(西暦1489〜1491年)の銘があるという六地蔵の石仏、あわせて高野槙(こうやまき)という樹木などが伽藍を形作っている。この六地蔵は、よく見られる地蔵が6体並んだものではなく、石幢(せきどう)という様式の―ちょうど燈篭のような形の石の表面に彫られている―もので、石幢の六地蔵としては福岡県下で最古のものであると云われている。

寺宝

『島原陣の大鼓胴(だいこどう)』なるもの、そして聖徳太子の画像をあわせて寺宝に有している。この画像の表装に使われている布地は、朝鮮の役(西暦1592〜1598年)の際の伝来品と伝えられている。

所在

住所は福岡県久留米市寺町81にて、電話番号は0942-32-9472、最寄の電停は櫛原駅。

資料