福聚院 〔霊應山〕

東京―文京(ぶんきょう)―小石川(こいしかわ)にその伽藍を据える浄土宗の一ヶ寺、大黒天(だいこくてん)をその本尊に拝する小寺、福聚院(ふくじゅいん)。霊應山との山号を称し、鎮護寺なる寺号を称しもするこの寺は、平成の代より小石川七福神の札所『大黒天』を務めつつ、数多の寺々とともに『文京の町』の街路を見据えている。

目次

歴史

そのごく初期の歴史については、江戸時代の頃―安永三年(西暦1774年)の開山をもって始まったとのことであるが、資料の少なさから、これ以上のことをここに詳らかにすることはできない。

江戸時代から名があり、甲子の日に参拝すれば商売繁盛の利益(りやく)が得られ、金運に恵まれるとのことで賑わったのであるという。安政四年(西暦1857年)の『小石川絵図』(作:戸松昌訓)にもその姿が描かれている。

昭和四十九年(西暦1974年)にはその本尊―木造の大黒天座像が文京区の有形文化財に指定され[1]、平成七年(西暦1995年)の元旦には、小石川七福神の大黒天の札所に定められた。

伽藍

住宅の町、文京の町・・・東京二十三区のほど中央のところに広がる文京区。福聚院はその内の小石川(こいしかわ)というところにあって、小、中、高、・・と数多の学校が建ち並ぶ街のさなかに伽藍を置いている。

幼稚園を経営しその敷地をその境内の傍に置く寺は数あれど、福聚院の様相は、幼稚園の敷地のなかに境内がある―あるいは幼稚園の敷地と一体化しているとしか言いようのなき姿であるようだ。門から本堂への参道を含むその境内の全体がまるでテニス場のような外観を示している。[2]

大黒天

小石川七福神の札所となったゆえん―古式で実に簡潔ながらも質量感に溢れるという、鎌倉時代(西暦おおよそ1185~1333年)の作と伝わる大黒天の座像。すなわち本堂の奥に眠る木造の本尊で、文京区の有形文化財。

それとは別に、ちょうど本堂の向かいのところにも大黒天が安置されているようで、それは小さな堂のなかにあって、赤の『三ヶ町』なる文字を刻んだ台座のうえに座している。[3]

とうがらし地蔵

門を入ってすぐ右側のところに、その通称を『とうがらし地蔵』という地蔵が置かれている。

いわく、明治時代(西暦1868~1912年)の中頃のこと。喘息(ぜんそく)の持病を抱える唐辛子好きの老婆が当時のこの地におり、唐辛子を食すことをかかりの医者に止められていたが、気にせず、あるいは内緒で食べ続け、ついには亡くなってしまったのだという。

老婆を哀れんだ近所の者たちは、一体の地蔵尊をこしらえたうえで、それに唐辛子を供えて供養した。するとその地蔵は喘息の平癒の効験を現し始めたという。そうして喘息の祈願をこの地蔵に行う人々のうちに、その礼として唐辛子を供えるという慣わしが生まれたものと伝えられている。

『せきどめの地蔵』としてその霊験を謳うこのとうがらし地蔵は、赤の前掛け、赤の帽、そしてその首にまるで数珠のように赤い唐辛子を巻きつけながら、境内の隅で静かに本寺の伽藍を彩っている。

周辺

すぐ北には淑徳学園中学校・高等学校の敷地が広がり、その傍らにはそれより大きな一ヶ寺の名刹の敷地が広がる。これすなわち、この地の往時を治めた将軍・徳川家(とくがわ-)の子女らの菩提寺となった浄土宗の一ヶ寺―伝通院(でんづういん)[4]

ほかにも数多の寺々が周辺に伽藍を置いている。

光雲寺、文京区立礫川小学校、日本基督教団上富坂教会、慈眼院、善光寺、源覚寺、善雄寺、小石川大神宮、...

西

多福院、龍閑寺、文京区立金富小学校、稱名寺、本法寺、日輪寺、善仁寺、生西寺、福勝寺、...

西岸寺、常泉院、文京区立第三中学校、中央大学理工学部、警視庁富坂庁舎、筑波大学附属大塚養護学校、北野神社、小石川税務署、文京盲学校、小石川後楽園、...

見樹院、法蔵院、真珠院、東京学芸大学附属竹早小・中・高等学校、小石川郵便局、念連寺、慈照院、喜運寺、光円寺、善仁寺、安閑寺、新福寺、宗慶寺、...

所在と交通

住所は東京都文京区小石川3丁目2番23号にて、電話番号は03-3811-3978、最寄の電停は後楽園駅。

資料