蓮正寺 〔利生山〕

福岡県都・福岡市の「屋形原」(やかたばる)という町の一角に境内を据える一ヶ寺、蓮正寺(れんしょうじ)。浄土真宗東本願寺派〔真宗大谷派〕を宗旨とし、山号を利生山(りしょうざん)と称するこの寺は、本尊に阿弥陀如来を据えつつささやかな伽藍を置いている。

晩夏の夕迫る時に鎮まるその本堂と境内
晩夏の夕迫る時に鎮まるその本堂と境内

目次

歴史

この蓮正寺の起源については、『筑前国続風土記』をはじめとする“筑前三大地誌”と呼ばれる地誌類においても、昭和期に編纂された『福岡寺院探訪』のような寺誌においても、その年代についての詳らかなる記録は明らかにされていない。

釈西伝(しゃくさいでん)という人物の開基によって興ったこの寺は、近世にあっては、糟屋郡三苫村〔のちの福岡市東区三苫地内〕の託乗寺とともに、博多の妙行寺という浄土真宗東本願寺派の寺に属した。

やがて時代も近代へと移ろい、大正年間(西暦1912年〜1926年)に新たな本堂が建立された。

昭和の時代に入り、第二次世界大戦の大いなる鬼火が世の空を照らす時代になると、後世に「福岡大空襲」として語り継がれることとなった戦火が福岡の町を襲い、焼け落ちゆく博多の町とともに本山の妙行寺も火の中へ。このときには“福岡24連隊”と呼ばれた兵団も被害に遭うこととなり、その兵隊達が難を逃れてこの寺―蓮正寺に落ち着き、終戦に至るまで住み着いていたという。

「蓮正寺 納骨堂」。裏手は竹の繁茂する林。
「蓮正寺 納骨堂」。裏手は竹の繁茂する林。

そうした戦火の時代も幕を下ろし、昭和25年(西暦1950年)に至って、「花畑保育園」という保育園を創立。それからおおよそ38年の時を経て昭和63年(西暦1988年)に至ると、その保育事業の功績を認められたとのことで、時の帝・昭和天皇からの下賜金を頂戴することになった。

さらに時も下って平成6年(西暦1994年)に庫裏と本堂を再建、かくして今に至る蓮正寺。『福岡寺院探訪』の編纂時点〔昭和63年(西暦1988年)の11月〜平成2年(西暦1990年)の5月〕でその住職は14世を数えた。

伽藍

福岡県都・福岡市にあって、その文字通り、その南のほうに域を広げる南区。

この区のうちのさらに南方―ほど南に那珂川町との境界を引き、中尾、老司、野多目、花畑、鶴田、・・・こうした町々とそれぞれの方角で境を接する「屋形原」という名の街区内にこの蓮正寺は位置している。

この地を東西に貫く県道49号〔福岡県道49号大野城二丈線〕に「屋形原三ツ角」という名の三叉路がある。蓮正寺の伽藍は、この三叉路から北に向かって伸びる小車道の傍の町中に佇んでいる。

老松神社とその本堂の見据える南方の風景
老松神社とその本堂の見据える南方の風景

そこかしこに古い町の面影を留める住宅街の内に覗く大屋根。山門も持たないその境内は非常に狭く、そこには大屋根を携える本堂、住職一家の住まいたる庫裏、そしてちょっとした離れに納骨堂があるのみ。

本堂および庫裏のある場所と納骨堂のある場所との間には、高台に向かって伸ばされた細道が北のほうへと続く。すなわち老松神社に至る道で、この宮の境内と本寺の境内とはちょうど隣接の状況にある。

すぐそばには竹林。往古には「屋形原村」と呼ばれた地であったその界隈は、市街化の波に呑まれながらもどこか古い町の落ち着きを宿す。

・・・かようの地にあり蓮正寺は、今日もわずかの伽藍を携え静かに在り続けている。

古記

筑前国続風土記拾遺

蓮正寺
眞宗東博多妙行寺の末なり。
那珂郡>屋形原村

筑前国続風土記附録

蓮正寺 ナカドウリ 真宗西 佛堂二間半三間半
博多妙行寺門徒なり。
那珂郡>屋形原村

所在

住所は福岡県福岡市南区屋形原4丁目18番16号にて、電話番号は092-565-0730、最寄のバス停は西鉄バス『屋形原』。

資料