西方寺 〔光雲山〕

筑紫次郎(ちくしじろう)などの異称を控えもする遥かなる大河―筑後川(ちくごがわ)。その流れが久留米(くるめ)の町に差し掛かるとき、流れは往時のこの地を配した城郭の影を南に見据える。

―その城下といえるところの寺町(てらまち)にある浄土宗の一ヶ寺、西方寺(さいほうじ)は、光雲山との山号を称し、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊に据える。

『浄土宗 光雲山 西方寺』―寺町に開かれたその山門
『浄土宗 光雲山 西方寺』―寺町に開かれたその山門

目次

歴史

西方寺の歴史は江戸時代(西暦おおよそ1600〜1867年)にあたる文禄(ぶんろく)の頃(西暦1592〜1595年)にこの地に始まった。

当時のこの地―久留米藩―の領主・毛利秀包(もうりひでかね)が座していた久留米城の城外にあたる柳原という場所に、文禄3年(西暦1594年)、念誉なる僧の手により開かれたことで、今に至る本寺が興りの時を見たのであった。開山の地たる柳原は、現所在地からいささか北に位置する場所―今の久留米大学医学部および久留米大学病院のあるあたりでまさに川縁―であった。

江戸時代に入り、4世住職の慶誉の代であった元和7年(西暦1621年)、当時の藩主家・有馬家(ありま-)より寺地を拝領し、現所在地の寺町に移転。

それから時を経てゆくにしたがっていつしか廃れてしまったのか、正保4年(西暦1647年)になると5世住職の信誉(または借誉)という僧によって再興。元禄10年(西暦1697年)には8世住職の矜誉によって庫裏が建立され、それから5年後の元禄15年(西暦1702年)には本堂が改築された。

時は大きく下って近代と呼ばれる時代になり、昭和30年(西暦1955年)には、それまで本寺の下寺としてあった善徳寺が本寺と合併し、もって廃寺となった。

伽藍

久留米市のほど北の外れでそのすぐ北方に大河―筑後川―の流れを湛える久留米城。そこからほど近くのところにある寺町(てらまち)という地区にあって、その名の通りに軒を連ねる数多の寺々とともに本寺の伽藍は据えられている。

徳雲寺(臨済宗)、善福寺(浄土宗)、妙善寺(日蓮宗)、正覚寺(曹洞宗)、妙蓮寺(浄土真宗)、妙正寺(日蓮宗)、真教寺(浄土真宗)、本泰寺(日蓮宗)、宗安寺(浄土宗)、心光寺(浄土宗)、浄顕寺(浄土真宗)、誓行寺(浄土真宗)、千栄禅寺(曹洞宗)、遍照院(真言宗)、少林寺(臨済宗)、医王寺(真言宗)、そして西方寺、・・・その一角はまさに寺町。

六地蔵
六地蔵

町の別当であった戸板屋(豊田家)の寄進と云われる山門。その向こうに広がる境内には、昭和49年(西暦1974年)の改築であるという本堂、六地蔵(ろくじぞう)のほか、幕末の志士・今井栄(いまいさかえ)の墓碑、鳥類研究家・川口孫次郎の墓碑などを置いている。

山門の近く、境内の右隅に置かれた、座像を安置する何らかの堂。
山門の近く、境内の右隅に置かれた、座像を安置する何らかの堂。

山門を入ってすぐ右手のところに座像を安置する何らかの堂が置かれている。6体の独立尊像を安置するという六地蔵もそのすぐ近くにある。

五葉松という古木を寺宝に有し、本尊・阿弥陀如来の脇侍たる観音(かんのん)と勢至(せいし)は恵心という人の作であるとも伝えられている。

開基の僧『念誉』

開基の僧と伝えられている『念誉』という人のことであるが、本寺の所在地方やその開山の時代、宗旨などからして、これが念誉行明である可能性は高い。

行明は長沼行明ともいった室町時代(西暦1336〜1573年)の浄土宗の僧で、筑前国(ちくぜんのくに)や筑後国(ちくごのくに)に数多の寺を建立したことで、これらの地の寺史に広くその名を遺している。

しかしながら史書の記録によれば、行明は永禄6年(西暦1563年)に没しているため、本寺の開基僧たる念誉をかの行明であるとしたならば、本寺の開山年度―文禄3年(西暦1594年)―からして食い違いが起きてしまう。

史書の記録からして確かなることは、行明が筑後国御井郡の藤山―本寺の所在地と同じ令制国の内にして本寺の現所在地からほど近くの町―で没したということである。

所在と交通

住所は福岡県久留米市寺町79にて、電話番号は0942-32-4280、最寄の電停は西鉄天神大牟田線櫛原駅または西鉄久留米駅。東に市立南薫小学校、北に市立櫛原中学校などがある。

資料

『筑前国続風土記 附録/拾遺』 - 加藤一純 鷹取周成/青柳種信
福岡寺院探訪』 - 今田正昭