観音寺 〔日枝山〕
筑紫の大地の悠久なる史と筑前の地の営みの名残を秘める糟屋郡の町―志免(しめ)。近代の世に始まった開発の波に呑まれゆく末に刻々とその姿を変貌させてきたこの町にあって、観音寺(かんのんじ)―そう号する浄土宗のこの一ヶ寺は、その山号を『日枝山』と称し、京都東山の知恩院をその本山に仰ぎつつ、近世以前に発する歴史を伽藍に伝えている。
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歴史
この寺―観音寺のその起こりや、そのごく初期の様相については、種々の古史料や後世の資料のうちにも詳らかではない。
ただ確かであると見られるのは、この寺が遅くとも江戸時代の初期にはこの地に存在していたということである。
『志免町誌』の言によれば、真誉無鉄(一説には石井とも)という僧による開基で、元和8年(西暦1622年)の開山とする説が長らくあったという。一方で近世に編纂された『筑前国続風土記附録』は、開基を同じく真誉としながらも、その開山を寛永14年(西暦1637年)のことであったと記している。
この元和の開山という説について、『志免町誌』は、これは移設を経た後の中興開山の時期であって、開創の時期ではなかった―ところが開創の時期であるといつしか誤り伝えられたものであった―と記している。
いわく、この寺は初めに『日枝』という小字の地の山に創建され、それから幾らかの時を経て『居屋敷』という小字の地へと移された。この移設―すなわち中興開山―が元和の時代であったのだという。
近所の別府村―のちの同町別府の内―の正覚寺とともに、時の福岡極楽寺町にあった極楽寺という寺の末寺として近世を過ごし、やがて時を大きく下って文政13年(西暦1830年)に、曜誉という名の僧が庫裏を再建。
それから更に100年近くの時を下り、久しく再建もなく荒れ果てていたところで、本堂および庫裏の再建とともに大正12年(西暦1923年)に現在の地へと移転した。
昭和36年(西暦1961年)の8月に納骨堂を完工し、昭和62年(西暦1987年)の2月に庫裏を新築。志免町誌の編纂期―平成元年(西暦1989年)の10月31日発行―でその住職は29世を数えた。
伽藍
福岡県のほど中央部にあり、県都の福岡市と隣り合って『筑紫』の地の内陸にわずかの領域を据える志免町。
往時に『南里村』と記されたところは、この町の役場などが立ち並ぶ、その『中心部』と言えよう場所から北西方へと上った平地に位置し、ところどころに数多の工場の並んだ住宅地。
そんな町をそれぞれ貫流してゆく須恵川と宇美川。・・・これら2つの流れがこの町の内でちょうど並行になるところ・・・『南里』(みなみざと)の4丁目にあって、この寺―観音寺のその伽藍は、その正面を南のほうに向けて佇んでいる。
小道のほうへと西向きに開かれた、寺号を示すものも無き小さな山門。瓦屋根のこの門を入ると、8つほどの地蔵を安置する石造りの堂~そして往古の逸話を伝える観音と阿弥陀如来とを安置した木造の堂を右手に見て過ぎ、そのまま庫裏らしき建物に突き当たる。
そこから左に曲がると、『日枝山』―すなわちこの寺の山号を記した板を正面に掛ける、この寺の本堂。そこに寺宝として納められている本尊は、木像にして三尺(おおよそ1メートル)の阿弥陀如来の像で、作者も年代もともに不詳の古仏であるという。
そんな本堂は、その手前に『水子地蔵尊』と記した一体の立像を置き、その左脇の細道すがらに数多の墓石を置いている。
『稲荷観音』の伝説
境内の南端に置かれた仏堂には、阿弥陀如来の像、十一面観世音菩薩の像、そして天平年間(西暦729〜748年)の作であるという聖視観音菩薩の像が安置されている。
これらのうちの十一面観音は『稲荷観音』との呼び名を持ち、その由緒を記した木板に、自身にまつわる往古の時代の逸話を記し残しているという。
いわく、この観音を篤く信仰していた南里村のある老翁が、雨に見舞われたある日の稲刈りの最中に、いずこよりか現われた一人の大男からの助けを得た。その直後にこの観音のもとに走ったところ、この観音の全身が稲藁にまみれ、かすかに汗を流していた。
このことから、この観音を称する『稲荷観音』という名が生まれ、かの老翁は自身の姓を『稲永』(いねなが)と改めたのだという。
その名残でか、それから時を大きく下った2008年の時点で、稲永姓を名乗る家が南里地区に100戸近く存在している。
郡中第11番札所。
往古の観音寺
元和の時代の開山という説を否定した『志免町誌』は、川向こうにある日枝山から発見された『元和5年4月29日寂恩連社深誉文意』という旨の和尚の碑、そして今に残るこの寺の山号が、あわせてそれを証拠として裏付けるものとしている。
『日枝』という地名は時代とともに消失してしまったものの、この寺の位置からいささか南の車道の交差点の名にその名残を見ることができる。
同様に『居屋敷』という地名も消失してしまったが、これはこの寺の位置からいささか北を流れる須恵川の向こう―ちょうど天祐寺という禅寺の付近であると考えられる。
同誌の挙げた『川向こうの日枝山』については、おそらくは、かの『日枝』交差点のすぐ近くを流れる宇美川がその『川』で、そこに架かる『日枝橋』という橋を渡ってすぐのところの王子八幡宮という神社の鎮座の場こそがその『山』にあたるものと見られる。そこは鬱蒼とした森の茂る小山となっている。
古記録
筑前国続風土記拾遺
- 観音寺
- 本村に在。金剛山無量院と號す。浄土宗鎮西派福岡極樂寺末也。開山を真誉無銕大徳と云。慶長六年五月七日に寂す。本尊の弥陀像長四尺斗古佛也。傳教の作と云。
筑前国続風土記附録
- 觀音寺 ホンムラ 淨土宗 佛堂四間二間半
- 金剛山無量院と號す。極樂寺に屬せり。寛永十四年眞譽と云僧開基す。寺内に觀音堂有。
所在
住所は福岡県糟屋郡志免町南里4丁目14-10にて、電話番号は092-935-1467、最寄の電停は原町駅。
資料
- 『志免町誌』>第八編 宗教と文化>神社・仏閣>寺院>観音寺 (P.818-819) - 志免町町誌編纂委員会
- 『筑前国続風土記拾遺』>表糟屋郡>南里村 - 青柳種信
- 『筑前国続風土記附録』>表糟屋郡>南里村 - 加藤一純/鷹取周成
- JA粕屋 / かすや歴史散歩 シリーズ46 ●●●観音寺の稲荷観音●●●