誓行寺

福岡県の南部に広がり、その隣県より流れ来たる大河―筑後川の大いなる水面を見据える筑後(ちくご)の地。その往時の城下の名残を留める久留米(くるめ)の町の一角にあり、その山号を光寿山と、その寺号を誓行寺(せいぎょうじ)と称する浄土真宗の一ヶ寺は、軒を連ねる数多の寺々とともに寺町(てらまち)を織り成し、往古の名高き庭師の遺した庭園を今に伝えている。

誓行寺 ~ 晩秋の寺町に開かれたその山門
誓行寺 ~ 晩秋の寺町に開かれたその山門

目次

歴史

その歴史のはじめは室町時代―戦国の世も終わりに向かって移ろいゆく頃。姓を佐田と称したある人物が、天文年中(西暦1532〜1554年中)に僧侶となり、釈浄近と名乗って本願寺(浄土真宗)に帰依し、弘治元年(西暦1555年)に御井郡(みい-)の下弓削村(現同市内北野町の内)に仏閣を建立。その子たる釈浄清が開基の僧となり、これが本寺の起源となった。この佐田某は、安倍宗任(あべのむねとう)―奥州(現岩手県の内)から筑前国に配流された平安時代の俘囚の長―またはその兄の貞任(さだとう)の子孫と伝えられもする人物である。

時代も江戸の世に入り、2世住職の祐玄の代にあたる慶長8年(西暦1603年)をもって久留米の元町(現同市内城南町の祇園社付近)に移転。祐玄は初代浄清の次男で、その兄にあたる浄慧は御井町(みいまち/現同市内御井町)の永福寺を建てている。この移転からおおよそ20年後の元和7年(西暦1621年)、時の藩主より寺町に寺地を拝領し、その東寄りの場に移転。更にそれからおおよそ13年後の寛永11年(西暦1634年)―3世住職休圓の代に、初めてその寺号を誓行寺と称した。正保3年(西暦1646年)には同じ寺町の内の西寄りの場所(現在地)に移転、これより念仏道場としてその時を刻み続けてゆく。

それから100年余の時を下った寛延3年(西暦1750年)に山門を再建、その8年後の宝暦8年(西暦1758年)に鐘楼を再建し、やがて近世を終えて近代に入り、明治17年(西暦1884年)に本堂の棟上を再建した。

伽藍

城下の名残をところどころに留める久留米の町。その市街の中心部からほど近いところの一画にあって、寺町は数多の寺々でもって形作られ、色濃い仏(ほとけ)の情緒をそこに醸し出す。

福岡県久留米市寺町―この町は、その中心を南北に走る一本の通りを軸として西(左)と東(右)に大別される。すなわち・・・本寺が元和の時代まで位置したところ―徳雲寺善福寺妙善寺正覚寺妙蓮寺妙正寺西方寺真教寺本泰寺宗安寺、・・・こうした寺々の並ぶ東側、そして本寺が正保の時代に移ったところ―遍照院、少林寺千栄寺医王寺浄顕寺心光寺、・・・こうした寺々の並ぶ西側の区画である。本寺―誓行寺は今もこのうちの西側の一角にあり、浄顕寺という真宗の寺と千栄寺という禅寺とのちょうど間に伽藍を置いている。

本堂
本堂

妙正寺西方寺と向かい合い、東の方角に向けて開いた山門。瓦屋根をその上方に、宗旨と山号と寺号とを刻む札をその柱に打ち付けたこの山門を入ると、念入りな手入れの行き届きを感じさせる庭を過ぎて、すぐさま反り返った屋根を携える建物―本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)を置く本堂に突き当たる。

境内に緑を育む庭園
境内に緑を育む庭園

境内に緑を育むこの庭園は、作庭家としても知られた11世住職の作風、すなわち『自然流(じねんりゅう)』または『誓行寺流』と呼ばれる様式を今もその前庭に伝えているという。

阿理城(ほとりりじょう)というこの11世住職は、30年の在職ののちに隠退して以後、西町の内藤邸の庭園、筑前の麻生邸の庭園などなど、数多の庭の作を指導し、時代も大正に移ろうとする明治45年(西暦1912年)の6月に佐賀で没した。

手掛けた庭のなかでも、佐賀神崎郡の九年庵(くねんあん/旧伊丹邸)は実に9年の歳月を費やしたもので、作庭家―阿理城の代表的作品と言われ、平成7年(西暦1995年)の2月21日より国の名勝ともなっている。[1]

所在

住所は福岡県久留米市寺町15にて、電話番号は0942-32-4654、最寄の電停は櫛原駅。

資料