青柳種信

江戸時代も後期になる頃に生き、優れた学者としてその名を遺した福岡藩士、青柳 種信(あおやぎ たねのぶ)。初めに種麿といい、やがて柳園と号し、勝次との通称を持った種信は、国学者および考古学者としての実に数多の業績を遺し、それらのうちでも地誌―『筑前国続風土記拾遺』の編纂者として特に知られている。

源守由の作によるその肖像画―画家・永倉江村人(ながくらこうそんじん)による模写。
源守由の作によるその肖像画―画家・永倉江村人(ながくらこうそんじん)による模写。

目次

生涯

江戸時代にあたる明和3年(西暦1766年)の2月20日、足軽・青柳勝種の子として地行(じぎょう)―現福岡県福岡市中央区地行―に生まれた。

幼くして学問を志した種信は、藩儒の井上周徳の学僕となり、苦学、天明年間(西暦1781~1788年)には江戸に出仕し井戸南山に儒学を学んだ。

寛政元年(西暦1789年)の4月、江戸からの下向の途中に松坂(まつさか)―現三重県松阪市の中心部―に赴いて本居宣長(もとおりのりなが)を訪ね、同人に入門、やがてその弟子となる。 宣長の記した『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』にこの時の記録が『筑前家中、青柳勝次〔来ル亥ノ年マテ江戸ツメ、古学者、田尻友、実名種信〕』というように遺されているという。

そうして宣長のもとで研鑽に務め、その学識も大いに進展。その功を認められ、文化11年(西暦1814年)には『国学家業城代組』となり、やがて『士班』なるものに列せられついに右筆役(御右筆記録方)になり、同時に13石4人扶持の切米(きりまい)を給せられた。

筑前国(ちくぜんのくに)―のちの福岡県の一部―の諸事物を記した貝原益軒(かいばらえきけん)の手になるところの名地誌―『筑前国風土記』。その補完書とも言えよう『筑前国続風土記拾遺(-しゅうい)』の編纂の主導、そのほかにも『宗像宮略記』や『香椎廟宮記』などの郷土誌、考古学のうえで名のある『柳園古器略考』など、数多の著作を遺した。

天保6年(西暦1835年)の12月17日に没した。享年70。墓は祖原―現福岡県福岡市早良区祖原―の顕乗寺にある。

余話

その学者としての大いなる名声の一方で、藩士としての身分は低かったこともあって、種信を知らなかった筑前の郡役人が幕府の監察使に種信のことを尋ねられ恥をかいた、という話が伝わっているという。

『貴藩の青柳種信先生ありと聞く、今何れの職にあるやと、郡宰、青柳先生を知らず、汗顔答ふる所を知ざりし』
―『筑前の国学と青柳種信』 上 - 武谷水城/『筑紫史談』 16集

その長子に種正、次子に種春という二学者、門下に、『太宰管内志(だざいかんだいし)』で知られる伊藤常足(いとうつねたり)、吉村千春、藤田正兼、国学者の岡崎勝海(おかざきかつみ)などがいた。

その業績は近世を終えた後世に―そして今に至って続々と再評価を受けている。

資料