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山号を“瑞祥山”と称する臨済宗・妙心寺派の少林寺(しょうりんじ)というこの寺は、阿弥陀如来を本尊に据えつつ、数多の寺々とともに福岡・久留米の「寺町」(てらまち)を形作る。

画像:少林寺 IMGP9353.JPG
開かれたある冬の日の三門と本堂

目次

歴史

少林寺の歴史は江戸時代(西暦おおよそ1600〜1867年)、俊嶺という僧の手により開かれた元和9年(西暦1623年)に始まった。この開基の僧・俊嶺は、同じ寺町の徳雲寺の開基の僧たる玄登の高弟であった人である。

江戸時代中には当時の久留米藩の重臣であった有馬光隆の菩提寺ともなり、『桶冠観音』(おけかぶりかんのん)と呼ばれる聖観音の像が同者によって本寺に移された。

天保7年(西暦1836年)には、当時のこの寺の檀徒の一人であった上野喜次郎なる人によって本堂が寄進される。上野喜次郎は築島という町の豪商で、献金によって浪人格を拝領した人であったという。そうした本堂も、時の下りの果てにガタを見たのか、昭和41年(西暦1966年)に至って再建の時を見ることとなった。

伽藍

久留米市の内の北西部に位置する「寺町」は、西鉄久留米駅を中心に据える久留米市街からほど近くにあり、北のほうに遥かなる大河・筑後川の流れを見据える。市内を貫く“昭和通り”と名付けられた車道。そこから北に伸びる道路をその中通りとし、その両脇に数多の寺々が軒を連ねる。まさしく“寺町”を織り成す町である。

宗安寺心光寺本泰寺真教寺浄顕寺西方寺誓行寺妙正寺妙蓮寺正覚寺千栄寺妙善寺善福寺、遍照院、徳雲寺、・・・といった、密集する寺々の多くはこの細い通りに面したところにその門を開いているのであるが、そうした寺町にあって、この通りからわずかに離れたところに位置するものがある。すなわち、ちょうど千栄寺と遍照院の敷地の間から西に入ってゆく小路があり、その先に佇む医王寺、そして小路の傍らに門を開く本寺「少林寺」である。

伽藍に山門はなく、ただ三門が南の方角に向けて開かれている。入ってそのまま歩けば本堂。その道中の左手に何らかの堂が置かれている。これがすなわち『桶冠観音』を安置するところの観音堂なのであろうか。

画像:少林寺 IMGP9355.JPG
境内の左側に佇む何らかの堂。『桶冠観音』か。

師走も近づく頃のある日の午前のひとときには、簡素にまとまったその境内の隅に坊守らしき人の清掃の様が見られ、その箒(ほうき)の音だけがただ穏やかに―その静かな一角に響きわたっていた。

寺宝

この寺が宝とするものに、南画(なんが)の匠・近藤藍圃の画、宗旨たる臨済宗妙心寺派の往時の管長・三生軒猷禅の書画、そして“桶冠観音”と呼び習わされる聖観音の像がある。

桶冠観音

毘沙門天と不動明王を脇侍に据え置くこの観音は、欽明天皇の時代(西暦539〜571年)に唐より帰国した連城という者が携えてきたものと伝えられる像で、元は豊後〔のちの大分県の中・南部〕の山里にあって、あらゆる願いを叶えるとのことで村人からの厚い信仰を受けていたという。

時も下って戦国時代(西暦おおよそ1493〜1573年)になると、これを安置していた堂がその兵火を被り全焼の憂き目を見る。ところがこの観音像だけは、逃げる間際の村人の手により水を張った桶が被せられたことで、のちに焼けることなく遺された。

かくして『桶冠観音』と呼ばれるようになったこの観音像であったが、江戸時代になりいつしか当時の久留米藩の重臣・有馬光隆の手にわたり、この寺を菩提寺としていた同人がこれを本寺に移した、とそう伝えられている。同代のうちには、のちの「筑後三十三観音」にあたる「郡中三十三観音」の札所に列せられもした(第17番)

墓碑

  • 近藤藍圃 〔南画家〕
  • 犬上軍兵衛 〔扱心流柔道家〕
  • 上野松代 〔俳人〕 辞世“燈明のうすらぐ雪の辺かな”
  • 荒木泰秋 〔俳人〕 “ゆさゆさと月に押し合う牡丹哉”
  • 赤司喜次郎 〔久留米つつじ功労者〕

所在

住所は福岡県久留米市寺町54-1にて、電話番号は0942-32-8831、最寄の電停は櫛原駅。

資料