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2013年7月17日 (水) 09:26の版
福岡県都・福岡市。博多の悠久の歴史をたたえる博多区の一角にあり、浄土真宗本願寺派にして“真如山”との山号を称するこの一ヶ寺『正光寺(しょうこうじ)』は、近世初めの頃に発する歴史を今に刻みつつ、車影の往来の絶えぬところに伽藍を置いている。
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歴史
かつてこの地に宝順という名の僧がいた。肥後国〔のちの熊本県内〕の出であったこの僧は、元は“柴田源右衛門正光”〔または“柴田源太夫正光”〕と名乗った人物で、この寺の縁起によれば、豊前国・中津〔のちの大分県中津市内〕の黒田孝高という戦国武将の臣であったという。
この柴田正光が仏門に入ったのが天正16年(西暦1588年)のことで、その名を宝順と改めたのが筑前国にやってきたとき―ちょうど慶長の頃のことであった。
やがて宝順は一宇の堂を博多の辻堂町〔出来町ともいい、現在の博多駅のすぐそば〕に建立した。これが慶長10年(西暦1605年)のことで、自らの名を用いてその堂の寺号とした。ここに正光寺の歴史が始まった。
それからちょうど百年の時を経て宝永3年(西暦1706年)に焼失。これをもってかその後に春吉村〔のちの同市内中央区春吉〕に移転したが、嘉永3年(西暦1850年)に再び焼失の憂き目を見て、雲霓という、中興の祖たる第9世の住職により本堂が再建されるに至った。
時も下った昭和39年(西暦1964年)に現所在地へ移転。『福岡寺院探訪』という寺誌の編纂期〔昭和63年(西暦1988年)の11月から平成2年(西暦1990年)の5月までの間〕でその住職は13世を数えた。
伽藍
博多区の南の外れから北へ博多駅の界隈までを結ぶ車道。通称「筑紫通り」。その南の終点に近きところ―筑紫通りが線路を越えようと宙に盛り上がる地点にあって、正光寺はちょうどその脇の一角に伽藍を据えている。
山門の手前に寺号を刻む一柱の石塔〔昭和53年(西暦1978年)の建立〕を据え置き、その境内は梵鐘、庫裏、そして本堂・・・と、世の数多の寺に一般的な事物を有するのみ。
境内の左隣には麦野公園という小さな公園があり、境内の右隣には、本寺の運営によるものであろう『正光寺ひかり幼稚園』という、浄土真宗本願寺派保育連盟加盟の幼稚園が位置している。この幼稚園は昭和40年(西暦1965年)に開設したものであるという。
日中でも山門を閉ざしていることがある。
古記録
筑前国続風土記拾遺
- 正光寺
- 四番町の東に在。一向宗博多万行寺の末なり。始は博多辻堂に在しを後今の所に移すと云。
筑前国続風土記附録
- 正光寺 四番町上 眞宗西 佛堂二間三間
- 博多萬行寺に屬す。開基ハ肥後國の産柴田源太夫正光と言者、慶長の頃本州に來りしか、世を遁て寶順と改名し、博多辻堂町に一宇を建立し、己か名を用ひて寺號とすと言。後に此所に移す。
所在
住所は福岡県福岡市博多区三筑2丁目31-1。最寄の電停は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。ほど近くに、福岡市立三筑小学校、同市立三筑中学校、金光教雑餉教会などがある。
資料
- 『福岡寺院探訪』(p.80) - 今田正昭
- 『筑前国続風土記 附録』 - 加藤一純/鷹取周成
- 『筑前国続風土記 拾遺』 - 青柳種信
- 浄土真宗本願寺派保育連盟【加盟園名簿:福岡県】 - 浄土真宗本願寺派保育連盟
- 正光寺ひかり幼稚園 - 福岡市私立幼稚園連盟