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太古に始まる筑紫の歴史と筑前の地の歴史とを今に伝える福岡県都・福岡市。『妙楽寺』(みょうらくじ)―そう号して“清浄山”との山号を称する浄土真宗のこの寺は、古来よりの名を今に留める「五十川」(ごじっかわ)という町の一角にあって、近世の幕開け迫る頃からの歴史を伝えている。

画像:妙楽寺 IMGP3374.JPG
蝉の鳴き声賑やかなりしある夏の日に閉ざされたその山門

目次

歴史

この寺―妙楽寺の歴史は、時代が戦国の世を経て安土桃山と呼ばれる時期から太平の世へと移ろいゆく頃、慶長年間(西暦1596年〜1615年)の初めという頃に、何者かの手によってこの地に創建されたことに始まった。

それからの経過については、『筑前三大地誌』と呼ばれる古書類にも詳らかでないものの、近世には博多の「万行寺」という寺の末寺としてあった。

大きく時も下って近代に入ると、昭和44年(西暦1969年)に本堂が新たに建立された。寺誌『福岡寺院探訪』編纂の時期〔昭和63年(西暦1988年)〜平成2年(西暦1990年)〕でその住職は第12世であった。

伽藍

福岡県都・福岡市のほど中央部―その名の通りこの市の南のほうに広がる「南区」。この区の域はさらに南で那珂川町という名の筑紫郡下の町と境を接する。

この那珂川町の奥部より流れやがては博多湾の溜まりに注ぎ込む「那珂川」という川がある。そしてこの川がちょうど南区とその東隣の博多区との入り組む区域に差し掛かるとき、その東岸のほうに「五十川」という町が広がる。

すなわち近世の地誌にも現われる「五十川村」の後裔たる町「福岡市南区五十川」。

浄土真宗本願寺派・清浄山・妙楽寺は、住宅街と化して民家の入り組むこの町のさなかに伽藍を置いている。

JR博多南線の線路と並行して南北に走る二車線の細い車道。その途中の小道を右手に入ると、南に向けて置かれたその山門が現われる。

第12世住職の代にあたる平成元年(西暦1989年)に伽藍の外塀とともに建設されたものというこの山門は、その右手前に「浄土真宗 本願寺派 妙楽寺」―そう記した、同代に置かれたものという石塔を携える瓦屋根の門。

これを入ると、「清浄閣」という名の納骨堂らしき建物を左手に見て、参拝者はすぐさまこの寺の本堂に対面する。

住職一家の住まいたる庫裏と隣接しながら東方を向いて建つこの本堂は、近代以降の特に昭和期以降に建てられた「寺の本堂」〔その中でもとりわけ浄土真宗の寺の本堂〕としてはさほど珍しいものではない、仏教寺院としての風情が致命的に欠けた平面屋根のコンクリート造り。

特に目立った事物は伽藍に見られず、かの「清浄閣」の裏手はだだっ広い参拝者用駐車場。

かようの本寺―妙楽寺は、すぐ北方に古名を“宇賀神社”という社「今宮神社」を、すぐ南方に応神天皇・神功皇后・玉依姫命の三神を祀る「五十川八幡宮」を見据えつつ、今も市街化のうちに喧騒に呑まれて久しい五十川の町の内に在り続けている。

画像:妙楽寺 IMGP3405.JPG
歴史ある町の一角に今日も。

古記

筑前国続風土記附録

妙樂寺 テラヤシキ 眞宗西・佛堂三間四面
博多萬行寺門徒なり。
那珂郡>五十川村

筑前国続風土記拾遺

妙樂寺
真宗西博多万行寺末なり。
那珂郡>五十川村

所在

住所は福岡県福岡市南区五十川2丁目4番3号にて、電話番号は092-431-2087、最寄の電停はJR鹿児島本線竹下駅、最寄のバス停は西鉄バス『五十川』。

資料