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20世紀も幕を下ろそうという頃のファッションモデルの世界に彗星のごとく現われ、そしていつしか去っていったイスラエル出身の女性モデル―ニナ・ブロシュ(Nina Brosh)。

西暦1975年11月12日―ユダヤ系ロシア人の父と中国人の母のもと、イスラエル北部の町―アフラ(Afula)もしくはラマット・イシャイ(Ramat Yishai)―に“ヴィック=ニナ=ルスィ・ブロシュ(Vick-Nina-Ruthi Brosh)という名で生まれたニナ・ブロシュは、西に地中海を見据えるこの国の大都市テルアビブの公園で寝ていたところをある写真家に発見されたことで、モデルとしての前半生を歩むことになった。

金を払うから写真を撮らせてください―そう声を掛けてきたその写真家に対して、ただ寝ていただけでなく当時どうしたわけかホームレスであったニナは了承の声を返し、かくして数週間の間にニナの写真がテルアビブ中に貼られることとなった。そうしてしばらくののちに米国の“ファッション・キャピタル”ことニューヨークで成功し、やがてパリで成功を掴むのである。

かくしてモデルになってからというもの、まずエビアン、ビブロスやジバンシーなどのブランドの広告塔として活躍。1993年にはデュラン・デュランというイングランドのロックバンドの『ファム・ファタール』(Femme Fatale)という楽曲のミュージックビデオに現われもした。

更に1995年にイギリスのファッション雑誌『ザ・フェイス』の「ファッション界の最も有力な人物」(Most Powerful Person in Fashion)で第79位に選ばれもしたニナは、その右肩に入れたザリガニのタトゥ(入れ墨)のおかげで同業のモデル達の間でも有名になった。―ザリガニは中国で幸運を意味するという。

1998年にはアメリカの『ハリウッド・サロメ』(Hollywood Salome)という映画に出演、その2年後には『ジ・アイス・ピープル』(The Ice People)という映画に出演し、ささやかながらも女優としてのその名を歴史に刻みもした。

画像:ニナ・ブロシュ - ビービー nina brosh bebe-10 13407902.jpg
ファッションブランド「ビービー」の広告に佇むニナ・ブロシュ

その経歴において、アルファーニ、アルマーニ・エクスチェンジ、ベベ、ドルチェ&ガッバーナ、ギノー、ギ・ラロッシュの『ドラッカー・ノワール』(香水), ランスティテュ、リズ・パラシオス、ノードストローム, イヴサンローランの『シャンパーニュ』(香水)、そしてビブロス、エビアン・ウォーター、ジバンシーの『フルール・ダンテルディ』(香水)、・・・などなど―各界に名のある数多のブランドの広告を飾った。

さらにフランスでヴォーグ(1994年4月)とビバ(1997年7月)、イタリアでドンナ(1996年4月)、日本でギャップ(1999年11月)、米国でサッシー(1994年7月)といった雑誌の表紙を飾り、ミュウミュウのレディ・トゥ・ウェア(1997年秋/冬季)ダナ・キャラン・ニューヨークのレディ・トゥ・ウェア(1998年春/夏季)といったファッションショーの舞台を飾った。

濃い茶色の髪、青緑の瞳、おおよそ1.73m前後の身長。

ヘブライ語に加えて英語と中国語を話すことができ、乗馬を趣味に持つ―そんなニナ・ブロシュは、自らの名を押し上げたモデルの仕事もいつしか半ば引退し、故国イスラエルに戻って彼氏とともに暮らす日々を送りつつ、医療の道を模索して勉強に励んでいるという。

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