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最新版
実に長きにわたってファッションモデルの世界にその名を轟かせてきたイギリス出身の女性モデル―ヤスミン・ル・ボン(Yasmin Le Bon)〔1964年10月29日生〕。
元々の姓を“パルヴァネ”(Parvaneh)というヤスミン・ル・ボンは、イラン人の父とイングランド人の母との間で、イングランドのオックスフォードに2番目の子として生を享けた。
そんなヤスミンのモデルとしての人生がその幕を開けるのは、ちょうど営業(セールス)のアルバイトをしていたところを地元のモデル事務所に“発掘”された1981年のことだった。そして地元のビューティコンテストや、いくつかのファッションショーに出場するなどしていたが、モデルとしての道を本格的に追求することを両親と友人から勧められ、1983年、ロンドンへ旅立ち、「モデルズ・ワン」(Models 1)というモデル事務所の門を叩くのである。
まだその経歴が始まってほとんど間もなかった1984年代の半ば―20歳のときには、デュラン・デュランという英国のバンドの歌い手にあたるミュージシャンのサイモン・ル・ボンと出会い、そのまま翌年の12月27日に結婚。そしてこの年からというもの、おおよそ13年後の1998年に至るまで、毎年欠かさず何らかのファッションショーを飾ってゆくことになる。
カルバン・クライン、クリスチャン・ディオール、ゲスなどといった錚々たる名ブランド群の広告塔を請けたことで、1980年代のうちに名モデルとして勃興したヤスミンは、1986年に至ってそのモデル業を中断せざるをえない状況に陥りもした。それは出産の失敗―流産してしまった―の影響を受けた身体を回復するためのものであったが、あくまでも一時的な休業に過ぎず、翌1987年の4月にはゲスの重要な広告の仕事を請けて復帰。
1980年代も後半になると、著名なファッション雑誌―『エル(Elle)』のアメリカ合衆国/イギリス版の創刊号で表紙を飾り、更に広くその名を世に馳せた。
その経歴のうちに広告の仕事を請けたブランド/デザイナー/企業の数々は、アリステア・ブレア、オールメイ、アンジェロ・タルラッチ、アン・テイラー、バナナ・リパブリック、バーグドルフ・グッドマン、ベルナール・ペリス、ビオテルム、ブルーミングデールズ、ボンウィット、ビブロス、カルバン・クライン、カサデイ、シャネル、チャノス、クロエ、クリスチャン・ディオール、クレイロール、クラークス、コッテレ、デイヴィッド・モリス、デベナムズ、ドロシー・パーキンズ、ドレッシング・ウェル、エル・コルテ・イングレス、エンリコ・コヴェリ、エスカーダ、エトロ、ファイリーンズ、フリーマンズ、フレンチ・カフェ、ジェニー、ジェフリー・ビーン、ジョルジュ・レッシュ、ゴールド・レーベル、グッチ、ゲラン、ゲス、ギ・ラロッシュ、ハーヴェイ・ニコルズ、H&M、ヘンリ・ベンデル、エルメス、ハウス・オブ・フレイザー、イ・ブルース、ジェイ・クルー、ジャン・ルイ・シェレル、ジュジュ、カール・ラガーフェルド、クラウス・シュタイルマン、ランバン、ローラ・アシュレイ、ロエベ、ルイ・フェロー、ルチアーノ・バルベラ、メイシーズ、マレーラ、マリア・ガスパーリ、マックス・マーラ、ミッソーニ、ミス・セルフリッジ、モエ・エ・シャンドン、モネ、ニーマン・マーカス、ニコル・ファーリ、ノリヒサ・オオタ、ピアノフォルテ・ディ・マックス・マーラ、ピレリ、プール・トワ、ラルフ・ローレン、リフレクションズ、サックス・フィフス・アヴェニュー、シュワルツコフ、セルフリッジズ、スポートマックス、スウォッチ、テキシエ、トッズ、トニー・アンド・ガイ、ワッコ、ヴァレンティノ、ヴィクトリアズ・シークレット、ラングラー、イヴ・サン・ローラン(リヴ・ゴーシュ)、・・・。
表紙を飾ったファッション雑誌は、もはや数えることすら困難と言えようほどの膨大な数。
そうした華々しいキャリアの傍らで、その私生活には苦難も多かった。幾度も重なる出産の失敗―しかし1989年の8月―ついに娘を授かった。更にそれから2年後の1991年には2人目の娘を、更にその3年後には3人目の子を産んだ。
ブラウンの髪に同色の瞳。身長おおよそ1.75m。ピアノとギターが趣味で、「詠春拳」(えいしゅんけん)という中国の武術を学んでもいる―そんなヤスミン・ル・ボンは、長い付き合いとなったモデルズ・ワン、そしてエリート・モデル・マネジメントのニューヨーク事務所に世話を受けつつ、時代が21世紀にうつろって以降も数多のファッションショーや雑誌に姿を見せ続け、かくしてベテランとしてのその名を美の世に知らしめ続けている。