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2013年8月13日 (火) 11:12の版
欧より亜までをその股に掛けたユーラシアの遥かなる大陸に横たわる極北の大地―ロシア。ナタリア・ヴォディアノヴァ(Наталья Водянова - Natalia Vodianova)〔1982年2月28日生〕―この女性は、この地に生まれてこの地に育みの時を送り・・・やがては世界にも稀有の存在感を得るまでの成功を収め、“美”の世に大きく名を留めながら活動を続けるスーパーモデルである。
目次 |
半生
胎動の時代
20世紀の世界を隔てた大いなる二極のうちの一極―ソヴィエト連邦の巨頭としてあった時代のロシア。
・・・この国のうちの西部にあって、この国を貫流する雄大なるヴォルガの流れのほとりに佇むゴーリキーという内陸の町にその生を享けたナタリアは、その幼少の時期より窮乏の生活のうちに育った。
母親と2人の異父姉妹という構成の家族のうちにあって、その母親が連れてくる粗暴なる恋人らに悩まされる日々―幼き時代を通してそのような環境にあったナタリアは、11歳という幼さにあって、母親とともに果物売りの仕事をしていた。
やがて15歳というときに、一人の友達と連れ立ったうえで、その友達とともにアパートに暮らし始め、その新しい環境のなかで、その友達とともに果物売りの仕事を始める。家族わけても姉妹を助けるために―そのような思惑をもって始めたこの仕事は幸運にもかなりの成功を収め、いつしか地元のモデル養成の学校に通うようになった。
そんなある日・・・フランスの“モードの都”―パリからやってきたとあるモデル事務所の代理人による“発掘”を受け、そこに少女ナタリアは自身の大きな転機を迎えるのである。
そうして1999年~17歳のときに、パリにその本部を置くビバ・マネジメントというモデル事務所と契約。そしてモデルの道を追求するために、少女ナタリアはこの町―パリへの移住を決意した。
始動の時代
20世紀も大詰めに迫った1999年〜そして2000年という時期にあって、そのキャリアも始まり間もなかったこの頃の稼ぎは非常に少なかった。それでも母国ロシアにいたときよりはマシであったという。
やがて自身の幼き半生を刻んだ20世紀も幕を下ろし、時代は21世紀へ~2001年になると、米国の『ティーン・ヴォーグ』という有名ファッション雑誌の表紙に登場。そのキャリアのささやかな始動の時代と言えたこの年にあっては、年も暮れゆく頃に一人の息子を授かりもした。
その相手はジャスティン・ポートマンという、イギリスのとある不動産屋の御曹司という男。イギリスでも有数の土地持ちであるというこの男と恋愛の末に結ばれたナタリアは、この出産ののちに母国のサンクトペテルブルクという町で結婚式を挙行することになった。
息子を産んでから実にわずか2週間後にはショーの仕事に復帰~そうした年も過ぎて2002年になると、さっそくイタリア発の名高いファッションブランド『グッチ』の送る香水との契約を得る。
続けてユルゲン・テラーというドイツ人写真家の撮影を受けたうえで米国発のマーク・ジェイコブスというファッションブランドの仕事を請け、やがてパリの街を舞台にフランスの“モードの帝王”ことイヴ・サン・ローランの秋季のショーを開幕。
同じくフランス発のルイ・ヴィトンという実に高名なるファッションブランドの広告塔を務めて春季を過ぎると、スティーヴン・マイゼルというあまりに名高い写真家の被写体となったうえで、“トップモデルの登竜門”と見做されうることしばしばの、ヴォーグ誌イタリア版の表紙にその姿を見せた。
勃興の時代
イタリアに発したピレリ社―この企業の送る『ピレリ・カレンダー』という例年の冊子に登場してその幕を開けた2003年には、夫のジャスティン・ポートマンとともにスティーヴン・クラインという名写真家の被写体となり、その写真を携えヴォーグ誌の母国ロシア版に登場。
春季から夏季にわたって~米国発にしてこの国のファッションブランド界の一翼を担うカルヴァン・クラインというファッションブランドのショーを修飾。これに始まりそれからおおよそ3年後のその冬季に至るまで、このファッションブランドのショーは毎年毎季の恒例となった。
ロレアルという名のフランスの生んだ世界最大の化粧品企業との契約を得て、ヴォーグ誌イギリス版の表紙を飾り立てもしたこの年―2003年も幕を下ろすと、同誌同国版の表紙に再びとなる登場を果たし、更には同誌の米国版の表紙に登場、年も後半の頃には同誌の日本版の表紙に2度にわたって登場。
カルヴァン・クラインの広告塔への起用を受けてその幕を開けた2005年―そんなこの年には、パトリック・デマルシェリエというフランス人写真家との仕事の機会に恵まれ、米国発のヴァニティ・フェアという歴史あるファッション雑誌に幾度も姿を見せることとなった。
・・・かの息子とともに紙面に1月〜エストニア出身のカルメン・カースとチェコ出身のカロリナ・クルコヴァとともに表紙に4月〜自らと同じロシアや東欧出身の数多のモデルらとともに『装いのスラブたち』という触れの特集のうちに同じく4月・・・。
カルヴァン・クラインとの契約を更新したうえで、このファッションブランドの『ユーフォリア』という名の香水との契約を結んだ2006年―この年にあっては、自身2人目の子供となった娘を授かり、その赤子を連れてヴォーグ誌フランス版の表紙に登場。
その翌2007年という年も、馴染みのカルヴァン・クラインとの契約の更新に始まり、このファッションブランドのコマーシャルの仕事をこなしてのちに、デヴィッド・ヤーマンというファッションブランドの仕事を通してケイト・モスというあまりに名高いモデルと対面。
このデヴィッド・ヤーマンの広告塔になり、年も半ばに至るとついには3人目の子供を妊娠。間もなくマリオ・テスティーノというペルー人写真家の撮影を受け、ヴォーグ誌イギリス版の表紙にその身体を披露した。
“トップモデル”へ
イタリアのトリノとそしてフランスのパリの生んだ『ニナ・リッチ』・・・この歴史あるファッションブランドの装いとともにヴォーグ誌米国版の表紙を修飾。そののちに、かのケイト・モス、そしてポーランド出身のダリア・ウェーボウィというモデルとともに、かのデヴィッド・ヤーマンのコマーシャルの仕事をこなして過ぎた―。
そんなこの年~2007年は、モデル―ナタリア・ヴォディアノヴァが、ひとりの“トップモデル”としての定着した認知を得た年でもあった。『フォーブス』という世界的に有名な経済誌のその紙面において組まれた『世界の長者番付』という企画のうちにその名を連ねたのである。
その昨年の所得が4.5百万ドル―およそ5億円―に達したナタリアは、この特集のうちのモデル部門の番付の5位に登場。
“トップモデル”―ナタリア・ヴォディアノヴァの名を世界に知らしめた瞬間であった。
熟成の時代
イヴ・サン・ローラン、シャネル、ジバンシイ、・・・こうした高名なるファッションブランド群の春季のショーをパリの地で終え、やがては幕を下ろした2007年―そして“勃興の時代”。
その経歴のうちに飾ってきた広告の数々は、アンナ・モリナーリ、カルヴァン・クラインおよびその香水『ユーフォリア・ブロッサム』とその下着『チョイス』、シャネル、コンパニーア・イタリアーナ、デヴィッド・ヤーマン、ダイアン・フォン・ファステンバーグ、ジョルジオ・アルマーニ、グッチとその香水、ゲランとその香水『シャリマー』、ジェイコブ&Co、ジャック・デサンジュ、ジグソー、ラ・スポーザ、ロレアル、ルイ・ヴィトン、マーク・ジェイコブス、ミス・シックスティ、モスキーノ、ペペ・ジーンズ、アルベルタ・フェレッティの『フィロソフィ』、ロッコ・バロッコ、スウィッシュ・ジーンズ、ヴェルサーチ、ヴェルサーチ・ビューティ、ヴェルサス、・・・。
飾ってきたコレクション―歩いてきたショーの数々は、ディーチェ・カヤック、ベッツィ・ジョンソン、ジョン・リッチモンド、マックスマーラ、ロッコ・バロッコ、ソニア・リキエル、ヴィヴィアン・ウエストウッド、アーアー・ミラノ、アティル・クトグル、ブルマリン、クリスチャン・ディオール、クスト・バルセロナ、ロエベ、パコ・ラバンヌ、ピエール・バルマン、ヨージ・ヤマモト、マーク・ジェイコブス、アレキサンダー・マックイーン、アナ・スイ、アン・クライン、バレンシアガ、キャシャレル、カルヴァン・クライン、セリーヌ、シャネル、コスチューム・ナショナル、DKNY、ダナ・キャラン、ドリス・ヴァン・ノッテン、エマニュエル・ウンガロ、ジバンシイ、グッチ、ヘルムート・ラング、フセイン・チャラヤン、ジャン・ポール・ゴルチエ、ジェレミー・スコット、ケンゾー、ラガーフェルド・ギャラリー、ルイ・ヴィトン、マルティーヌ・シットボン、マイケル・コース、ヴァレンティノ、ナルシソ・ロドリゲス、ステラ・マッカートニー、ヴィクター&ロルフ、イヴ・サン・ローラン、アレッサンドロ・デラクア、アマヤ・アルズアーガ、アンナ・モリナーリ、BCBG、クロエ、ドルチェ&ガッバーナ、ジル・サンダー、ラ・ペルラ、マルニ、ミゲル・アドローヴァー、ミッソーニ、ミュウ・ミュウ、オスカー・デ・ラ・レンタ、プラダ、ラルフ・ローレン、ロベルト・カヴァリ、トミー・ヒルフィガー、ヴェルサーチ、ヴェルサス、ザック・ポーゼン、クリスチャン・ラクロワ、ビル・ブラス、キャロリーナ・ヘレラ、ダイアン・フォン・ファステンバーグ、フェンディ、ランヴァン、ルエラ、スポートマックス、カール・ラガーフェルド、・・・。
米国出身のアンジェラ・リンドヴァルとステファニー・シーモアを始めとする数多のトップモデルらとともにルイ・ヴィトンの春季の広告に登場―そうして幕を開けた2008年には、ベルギーの生んだダイアン・フォン・ファステンバーグというファッションブランドの広告塔へと就任。
イギリス出身のクレイグ・マクディーン、馴染みのスティーヴン・マイゼル、同じく馴染みのパトリック・デマルシェリエ、そしてゲイの世界に名高いブルース・ウェーバー、・・・錚々たる写真家らの被写体を務め上げたうえで、母国ロシアのそれを含む世界各国のヴォーグ誌の表紙、更には日本版のヌメロ誌の表紙に登場。
そして『ゲラン』―フランスの生んだこの歴史ある化粧品ブランドの『シャリマー』という名の香水と契約を結び、やがて幕を下ろした―。
そんなこの年~2008年も、その前年に同じくかのフォーブス誌の例年の企画にその名を連ねた。初登場となった前年とほぼ同額の所得額―モデル部門の番付にあって第7という順位であった。
その姿
薄茶色の髪に青色の瞳。身長おおよそ1.76m。
アレック・ウェック、カルメン・カース、エヴァ・ハーツィゴヴァ、マリアカルラ・ボスコーノ、ミシェル・アルヴス、ナターシャ・ヴォジョノヴィッチ、ソフィ・ダール、ヴィッキー・アンドレン、・・・こうした同業者らとのそれのほか、その仕事を幾度かともにしてきた写真家のマリオ・テスティーノとの交流を持つ。
熟練の域に達して久しいその本業の傍らにあって、その故国―ロシアの恵まれない子供らのために遊園地を建設しよう・・・“ロシアへ愛を込めて”・・・そのような主旨をもって設立した『ネイキッド・ハート・ファウンデーション』という名の基金を運営。
その半生の旅路の先に名実揃えたスーパーモデルとしての存在感を得るに至って、いつしか“スーパーノヴァ”・・・そんな愛称を獲得。設けた家族と寄り添いながらに米国の“ファッション・キャピタル”―ニューヨークにその生活を居を置きつつ、・・・。
そんなモデル―ナタリア・ヴォディアノヴァは、今日も遥かなる“美”の世界とその大いなる舞台のさなかにあって、その“一流”の彩と輝きを世へと放ち続けている。
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- 『私はやったんだ。もう欲しいものはなんでも持ってるよ私。私の気掛かりのすべて―家族を保てるだけのお金も充分稼いじゃったしね。』
- 〔I have done it. I have everything I want. I have made enough money to secure my family and that is all I care about.〕
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- 〔I have done it. I have everything I want. I have made enough money to secure my family and that is all I care about.〕