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かつて讃岐(さぬき)と呼ばれたところは今に四国の内は香川県。曼荼羅寺(まんだらじ)というその寺は、古の代に生きた名僧・弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)とのゆかりを持つ一ヶ寺にして、同人を生んだその善通寺(ぜんつうじ)のその市域の一角に伽藍を置く。

その院号を延命院(えんめいいん)と、そして山号を我拝師山(がはいしざん)と称するこの寺は、真言宗(しんごん-)の善通寺派をその宗旨として今にあり、今や何人たりとも知りえぬ深遠の彼方―飛鳥時代と云われる頃よりこの地にその時を刻み、四国八十八ヶ所の第72番目の札所を兼ねつつ、大日如来(だいにちにょらい)をその本尊に拝している。

目次

歴史

その歴史は飛鳥時代の初めの頃の推古天皇4年(西暦596年)、かの名僧・弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)の先祖にあたる佐伯家(さえき-)の氏寺として、この地に世坂寺という号をもって建立されたことに始まった。

それから200年余の時を下った平安時代の大同2年(西暦807年)、母の菩提を弔うべくと、空海がこの世坂寺に大規模な堂塔の造営を始めるのである。ちょうど留学していた唐から帰ってきたばかりであった空海は、唐から持ち帰った両曼荼羅―金剛界と胎蔵界―の曼荼羅図を安置したうえで、本尊として大日如来を刻み、寺号を曼荼羅寺に改称、のちに四国八十八ヶ所と呼ばれることになる霊場群の札所に定めた。

実に3年にわたって続くことになったこの造営は、唐の青龍寺という寺を模して成されたものと伝えられている。

伽藍

瀬戸内海(せとないかい)の霊妙の揺らぎと太平洋(たいへいよう)の遥かなる水面を見据える四国の島。その内の東北方に位置するところの香川県の内陸の地にあって、善通寺市はそこに古くより連なる歴史の面影を留める。

空海の生誕の地でもある善通寺市には、同人の修行の場ともなった『五岳』と呼ばれる連山がある。これすなわち、香色山(こうしきざん)、筆ノ山(ふでのやま)、中山(なかやま)、火上山(ひあげやま)、そして我拝師山(がはいしさん)―曼荼羅寺はこれらの山々の中央に横たわるところの我拝師山の麓に伽藍を置いている。

山門を抜け、その境内を流れる小川の橋を渡ればその正面が本堂。その手前には漂泊の歌人・西行(さいぎょう)の遺跡と伝わる『昼寝石』と『笠掛桜』とがあり、その右手には庫裏と観音堂、その左手には鐘楼、そしてこの鐘楼の奥に中興の祖―空海を祀る大師堂が置かれている。

境内には『不老松』と呼ばれる大きな松の木が見事な傘形に枝を張っている。これは本寺の寺号が世坂寺からのちにまで残る曼荼羅寺になったとき―本寺を空海が中興したときに同人が植えたものであるという。

本尊―大日如来の真言は、

おん あびらうんけん ばざら だとばん

の三返読経。御詠歌は、

わずかにも曼荼羅おがむ人はただ 再び三たび帰らざらまし

の一返読経となっている。

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所在

住所は香川県善通寺市吉原町1380-1にて、電話番号は0877-63-0072、最寄の電停は善通寺駅、最寄のバス停は仁尾バスの吉原停留所。

資料