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2007年10月30日 (火) 10:27の版

箕面山と号する本山修験宗の古寺、瀧安寺りゅうあんじ)は、摂津国(せっつのくに)の北―箕面(みのお)の一角にその伽藍を置き、今や遠いところの物語と化した古の代の語りを伝える。

『瀧安寺』 - 額
『瀧安寺』 - 額

修験根本道場、西国七福神札所、摂津国八十八箇所第五十五番札所、摂津国三十三箇所第二十一番札所[1]。日本の修験道の大本山、通称、箕面寺[2]。祀る本尊―弁才天(べんざいてん)は、開基の僧の作であるという、日本の弁財天のうちで最初にして最古のものであると伝えられ、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)、相模湾の江ノ島、瀬戸内海の厳島(いつくしま)のそれとともに日本四ヶ所弁財天と並び称される[3]

目次

歴史

斉明天皇四年(西暦658年)―時は飛鳥時代(あすか-)と呼ばれる頃。役小角(えんのおずぬ)―すなわち役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる者が25歳のとき、この地に落ちる滝―箕面の滝で修行をしていたときに、その滝の上にある龍穴において龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)―すなわち弁財天尊に法を授けられたことで、滝の下で不動明王と弁財天の像を刻み、堂を作って安置したという。ここに瀧安寺の歴史が興りの時を見たのであった[4][5][6]。龍樹菩薩の龍樹とは、古の時代のインドの高僧―ナーガールジュナのことである[7]

それからというもの、この国で最初の修行道場として、数多の堂宇を滝道に連ね数多の修行者たちを集めた。そのなかには、行基、空海、円珍、聖宝、日蓮、法然、蓮如などの、歴史に名を遺す僧たちもいた[8]。更に現同市内の真言宗刹―勝尾寺(かつおうじ)とともに浄土信仰の聖地ともなる[9]

後醍醐天皇(ごだいご-)の隠岐からの帰還をその皇子たる護良親王(もりよし-)の令旨によって修法したという功績で、元弘二年(西暦1332年)に瀧安寺という寺号と勅額を賜った、という伝えがある。それまでは箕面寺と呼ばれていたのがこれをもって瀧安寺となったというが、これはあくまでも一説であるという。[10]

時も下り、たびたびにわたる火災や震災などで衰微してしまった堂宇は、慶長八年(西暦1603年)に至って、覚玄という名の僧の手により、それまでの滝の下から近場に移転を経て再建された。[11]

平成十四年(西暦2002年)の再建であるという観音堂。国指定重文の如意輪観音像を安置する。
平成十四年(西暦2002年)の再建であるという観音堂。国指定重文の如意輪観音像を安置する。

江戸と呼ばれる時代に入ると、後水尾天皇(ごみずのお-)をはじめとするところの朝廷の帰依を受け、今に伝わる伽藍の事物の多くが元禄六年(西暦1693年)に完成した。[12]

今日にあっては、七福神の弁財天、そして観音を中心に、宗派を越えるところの広い信仰を得る寺となっている。[13]

伽藍

鮮やかな朱の『瑞雲橋』
鮮やかな朱の『瑞雲橋』

伽藍は豊かな自然を育む箕面公園の織り成す林の迫るところに位置し、近場を淀川水系の一級河川―箕面川の流れが南北に貫く。

箕面駅から箕面の滝に向かって歩いてゆくと、右手にその山門が現れる[14]。この山門の前には大きな滑り台を擁する児童公園があり、地の子供たちの格好の遊び場になっているという[15]

山門を入ったところに一宇の観音堂がある[16]。これは平成十四年(西暦2002年)に再建されたもので、国指定の重要文化財たる如意輪観音(にょいりんかんのん)の像を内に安置する[17]

瑞雲橋という朱塗りの橋を渡ったところには、鳳凰閣(ほうおうかく)という、大正六年(西暦1917年)の建築物が座している。[18]

手前に行者堂という堂を据える本堂―弁天堂は、拝殿―そして本殿という、神社の様式を示す建物。境内には鳥居もあり、寺であることを知らずに訪れた者は、ここを神社であると思ってしまうであろうという。[19][20]

余話

年の正月の15日には山伏(やまぶし)たちが集い、なにかを盛大に執り行うという。それが何であるのかはここに定かではないが、とにかく何かを行うようである。[21]

年の1月1日から3日にかけて、修正会の行事として『牛王宝印』なる事物の当たる籤(くじ)が行われていたという。これは富籤(とみくじ)の発祥とも言われており、これに使われた箱は大阪府の民俗資料に指定されている。[22]

所在と交通

大阪府箕面市箕面公園2-23[23]。最寄の電停は阪急電鉄箕面線箕面駅。

ほど近くに、同寺の霊園、みのお山山荘の杜、箕面公園昆虫館などがある。