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版間での差分

2007年11月2日 (金) 05:13の版

室町時代(西暦1336~1573年)の僧―行明により開山に至った西専寺さいせんじ)という浄土宗の小さな寺は、福岡県の県都―福岡市のほど外れのところにあり、今に紫雲山と号し、小さきながらもなかなかの長き歴史をその伽藍に刻んでいる。

本堂
本堂

目次

歴史

今田正昭の筆による寺誌『福岡寺院探訪』によると、本寺―西専寺は無住の時代が長かったことから、詳しい記録が遺されていないという。

江戸期の儒学・本草学者たる貝原益軒(かいばらえきけん)の編纂による名高き史書『筑前国続風土記』。これの補強版にあたる『附録/拾遺』には、浄土宗―その鎮西派(ちんぜい-)の『妙圓寺(みょうえんじ)』の末寺であると、そして行明上人の開山による寺であると記されている。

この開基の僧・行明が没したのが永禄六年(西暦1563年)のことであるから、その開山は遅くとも同年以前であるものと見ることができる。同書には更に諸岡山(ないしは岡山)と号す寺であると記されており、これらの書の編纂期の少なくとも一時期の西専寺が今と異なる山号を持っていたことがわかる。

いつから今の山号―紫雲山を名乗るようになったのかはここに定かではない。上掲の『福岡寺院探訪』に述べられているように、とにかく資料が少ないのである。

平成元年(西暦1989年)の3月30日には寺宝の『永正三年銘梵字板碑』が考古資料として福岡市の有形文化財に指定された。[1][2]

前出の今田正昭が取材した時点で住職は第25世であった。

古書の記述

  • 『西専寺
岡山西專寺と云。浄土宗鎮西派妙圓寺の末なり。
○古戰場岡山の南に在。
○松古野といふ所に池堤有。水面壱町弐反あり。』
― 筑前国続風土記 拾遺
  • 『西專寺 ムラウチ 浄土宗 佛堂方二間
諸岡山と號す。住吉村妙圓寺に属せり。開山は行明上人なり。寺内に地蔵堂あり。』
― 筑前国続風土記 附録

伽藍

三門近くの堂
三門近くの堂

境内は博多区(はかた-)の内―筑紫通りという大通りの傍に広がる諸岡(もろおか)という街区の一角にあって住宅街のさなかに位置し、やがては御笠川(みかさー)に合流する河川・諸岡川の水面を東方ほど近くに見据える。

公民館を思わせる施設『諸岡町会館』の脇の道を入ると、その突き当りが三門となっており、そのすぐ奥に本堂が座す。ささやかな広さのその境内には、これといって目立った事物は見られず、何らかの堂、納骨堂、戦没者を慰霊するものと思しき墓風の碑などが見られるのみである。

上述の何らかの堂は、三門を入ったところのすぐ右手に位置し、反り返った瓦屋根に守られている。寺内に地蔵堂があるとの記述が上掲の『筑前国続風土記』の『附録』にあるが、もしかしたらこれがそうであるのかもしれない。

『永正三年銘梵字板碑(えいしょうさんねんめいぼんじいたび)』として福岡市の文化財に指定されている板碑を寺宝に有する。これはすなわちその名の通り、永正三年(西暦1506年)の銘と梵字―インドに起源を有する文字―の刻まれた板碑である。これがこの寺のために作られたものなのか、それとも何らかの経路をもってこの寺に流れ着いたものであるのか、・・・そうした背景についてはここに定かではなく、これを拝観することができるのかどうかについてもここに定かではない。

余話

所在地は『諸岡遺跡』と呼ばれる弥生時代の甕棺(かめかん)や中世の住居跡が出土した場所で[3]、更に近場を流れる諸岡川の向こう岸は、板付遺跡(いたづけ-)という、名のある太古の遺跡が出土した板付地区。

その川をしばらく北に下ると、流れは御笠川に転じて博多湾に向かってゆくが、その流れの一角の東岸にある同市同区の堅粕(かたかす)という街区の内に慈広寺(じこうじ)という寺がある。この真宗大谷派の寺は西専寺と同じ『紫雲山』という山号を持つ。

更に、同様の山号を持つ寂静寺という寺が同県の那珂川町にある。

所在と交通

所在は福岡県福岡市博多区諸岡1丁目25番32号。最寄の電停はJR鹿児島本線笹原駅。

資料