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2007年11月6日 (火) 10:21の版
筑紫次郎(ちくしじろう)などの異称を控えもする遥かなる大河―筑後川(ちくごがわ)。その流れが久留米(くるめ)の町に差し掛かるとき、流れは往時のこの地を配した城郭の影を南に見据える。
―その城下といえるところの寺町(てらまち)にある浄土宗の一ヶ寺、西方寺(さいほうじ)は、光雲山との山号を称し、阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊に据える。
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歴史
西方寺の歴史は江戸時代(西暦おおよそ1600~1867年)にあたる文禄(ぶんろく)の頃(西暦1592~1595年)にこの地に始まった。[1]
当時のこの地―久留米藩―の領主・毛利秀包(もうりひでかね)が座していた久留米城の城外にあたる柳原という場所に、文禄三年(西暦1594年)、念誉なる僧の手により開かれたことで、今に至る本寺が興りの時を見たのであった。開山の地は現所在地からいささか北に位置する場所―今の久留米大学医学部および久留米大学病院のあるあたりでまさに川縁―であったという。[2]
それから時を経てゆくにしたがっていつしか廃れてしまったのか、正保四年(西暦1647年)になると5世住職の信誉という僧によって再興された。[3]
時は大きく下って近代と呼ばれる時代になり、昭和三十年(西暦1955年)には、それまで本寺の下寺としてあった善徳寺が本寺と合併し、もって廃寺となった。[4]
伽藍
久留米市のほど北の外れでそのすぐ北方に大河―筑後川―の流れを湛える久留米城。そこからほど近くのところにある寺町(てらまち)という地区にあって、その名の通りに軒を連ねる数多の寺々とともに本寺の伽藍が据えられている。
徳雲寺(臨済宗)、善福寺(浄土宗)、妙善寺(日蓮宗)、正覚寺(曹洞宗)、妙蓮寺(浄土真宗)、妙正寺(日蓮宗)、真教寺(浄土真宗)、本泰寺(日蓮宗)、宗安寺(浄土宗)、心光寺(浄土宗)、浄顕寺(浄土真宗)、誓行寺(浄土真宗)、千榮禅寺(曹洞宗)、遍照院(真言宗)、小林寺(臨済宗)、医王寺(真言宗)、そして西方寺、・・・その一角はまさに寺町。[5]
町の別当であった戸板屋(豊田家)の寄進と云われる山門。その向こうに広がる境内には、昭和四十九年(西暦1974年)の改築であるという本堂、六地蔵(ろくじぞう)のほか、幕末の志士・今井栄(いまいさかえ)[6]の墓碑、鳥類研究家・川口孫次郎の墓碑などを置いている。[7]
五葉松という古木を寺宝に有し、本尊・阿弥陀如来の脇侍たる観音(かんのん)と勢至(せいし)は恵心という人の作であるとも伝えられている。[8]
開基の僧『念誉』
開基の僧と伝えられている『念誉』という人のことであるが、本寺の所在地方やその開山の時代、宗旨などからして、これが念誉行明である可能性は高い。
行明は長沼行明ともいった室町時代(西暦1336~1573年)の浄土宗の僧で、筑前国(ちくぜんのくに)や筑後国(ちくごのくに)に数多の寺を建立したことで、これらの地の寺史に広くその名を遺している。
しかしながら史書の記録によれば、行明は永禄六年(西暦1563年)に没しているため、本寺の開基僧たる念誉をかの行明であるとしたならば、本寺の開山年度―文禄三年(西暦1594年)―からして食い違いが起きてしまう。
史書の記録からして確かなることは、行明が筑後国御井郡の藤山―本寺の所在地と同じ令制国の内にして本寺の現所在地からほど近くの町―で没したということである。
所在と交通
所在は久留米市寺町79にて、電話番号は0942-32-4280、最寄の電停は西鉄天神大牟田線櫛原駅または西鉄久留米駅。東に市立南薫小学校、北に市立櫛原中学校などがある。