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2007年11月6日 (火) 19:22の版

子午線(しごせん)の町、海峡の町―兵庫県の内で南に瀬戸内海の溜りを見据える明石市(あかし-)。その歴史における中心の地と言えようところの一角にあり、月照寺げっしょうじ)は遥か古からの時をその伽藍に刻んでいる。

潮のゆらぎと航路をゆき交う船々を見守るところの丘に佇む古刹・月照寺は、曹洞宗(そうとうしゅう)をその宗旨とし、人麿山(ひとまるさん)との山号を称し、数多の寺宝を内に控えつつ、釈迦如来(しゃかにょらい)をその本尊に据える。

画像:月照寺 311861805.jpg
―『曹洞宗 人麿山 月照寺』 - その本堂

目次

歴史

月照寺の歴史は、名僧・弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)がこの地の赤松山に楊柳寺(ようりゅうじ―餘鵜楊柳寺)なる一ヶ寺を建てた弘仁二年(西暦812年)に始まった。この寺は湖南山と号し、その開山の地・赤松山は当地―明石―にあった岡で、のちに明石城が建造される場所にあたるという。[1][2]

それからいささかの時を下った仁和三年(西暦887年)に、当時の和尚であった覚証という人が、大和(やまと)の地の広安寺という刹より船乗十一面観世音という観音を勧請。それを奥の院に祀り上げ、それまで称した楊柳寺という寺号を改め月照寺と称するようになった。[3]

時は大きく下って安土桃山時代(西暦おおよそ1568~1600年)。天正二年(西暦1574年)に、それまでの宗旨であった真言宗から曹洞宗へと改宗。[4]

江戸時代(西暦おおよそ1600~1867年)に入ると、当地・明石にその藩主として入った小笠原忠真(おがさわらただざね)の手により、この地に新たな城郭が築かれる。これすなわち明石城である。これに伴って元和七年(西暦1621年)に境内が城地となり、更に翌年(西暦1622年)には境内の人丸社とともにそれまでの地からいささかばかり東方の現所在地に移転し、その新殿が竣工した。[5]

享保八年(西暦1723年)には人麿千年祭なるものが催行されるとともに、『正一位 柿本大明神』という神位・神号が境内の人丸社に与えられた。[6]

江戸年中に永代の勅願寺(ちょくがんじ)―時の帝(みかど)のみとめを受けた寺―となった月照寺は、歌道や人麿信仰の栄えの時を見て、その時々の帝から数多の諸物の奉納を受けもした。延享元年(西暦1744年)には山号を今に続くところの人麿山と改めた。[7]

そうした太平の時代も過ぎて近代に入り、神仏分離令を受け、明治四年(西暦1871年)、それまでの長きの時をともに過ごした人丸社と分離。同社は柿本神社となる。[8]同六年(西暦1873年)には明石城の切手門が本寺に山門として移された。[9]

昭和四十七年(西暦1972年)には人麿1250年祭なる催しが盛大に執り行われたという。[10]

伽藍

人丸山公園として緑をたたえる人丸町の丘。市の運営による天文科学館、歴代明石藩主の墓を置く浄土宗の刹・長寿院、そして元は一体であった宮―明治の代に離れてしまった柿本神社などがある丘。釈迦如来をその本尊に拝する古刹[11]、人麿山―月照寺の伽藍は緑とともにそこにある。

山門

画像:月照寺 311861804.jpg
その境内と市指定重文の山門

今に開かれた月照寺の山門は、かつて京都の伏見城(ふしみ-)にあった薬医門という門で、やがてそれが明石城の切手門(きってもん)になり、同城の明治の代の廃城とともに本寺に移されたものであるという。かの太閤・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の建立であるという豪壮な風格のこの門は、昭和四十五年度(西暦1970年)より明石市の文化財に指定されている。[12][13]

本堂

四百余の総建坪を持つという月照寺の本堂は、本寺がこの地に移転してからというもの実に400年近くの時を刻んできたものが平成七年(1995年)の地震―いわゆる阪神大震災(はんしんだいしんさい)によって全壊したことで、平成十年(西暦1998年)に新たに再建されたもの。菊の紋入りの屋根瓦を据え、栄えし往時を今に伝える。[14]

開山堂

読みは『かいざんどう』であろうか。本寺の歴代の住職を祀る『開山堂』という建物は、ちょうど本寺の本堂の裏手のところに位置している。[15]

観音堂

『人麿念持仏』の『海上波切船乗十一面観世音菩薩』なる観音像を安置する観音堂(かんのんどう)は、昭和五十四年(西暦1979年)に再建されたもので、本堂の東隣に位置する。この像は、聖徳太子(しょうとくたいし)の作と伝わり、持統天皇(じとう-)の念持仏であったものだという。これは今や秘仏となっており、堂の扉は60年に一度しか開かれない。[16]

鐘楼

内に梵鐘を納める月照寺の鐘楼(しょうろう)は観音堂の手前に置かれている。京都は太秦(うずまさ)の岩沢宗徹という師により鋳られたものという梵鐘であるという。[17]

八房の梅

本堂の正面におえる梅の木は、江戸の元禄(西暦1688~1703年)の時代に散ったこの地の出の47名の武士―赤穂四十七士(あこうしじゅうしちし)、今に人呼んで赤穂浪士(あこうろうし)のその内の一人、間瀬久太夫正明(ませきゅうだゆうまさあき)が、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)とともに本寺に参詣したおり、ここに手植えしたものであるという。一つの花に八つの実がなることから『八房の梅』という名がある。[18]

柿本人麿の歌碑

柿本人麿とは、飛鳥時代(あすか-)の歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)のことであろうか。いずれにしても昭和四十七年(1972年)、人麿1250年祭を記念して建てられたものというこの歌碑は、山門の前のところに位置し、次のような歌を刻む。

 ともしびの明石 大門に入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたりみず...

当地―明石に住む池内艸舟(-そうしゅう)という書家の筆であるという。[19]

田中千艸女の句碑

観音堂の手前に置かれた明治三十年(西暦1897年)の建立であるという句碑は、田中千艸女なる俳人の次のような歌を刻んでいる。

 影清し 月は明石の うらなれや...

田中千艸女は、この地を選挙区とした昭和期の政治家・田中源三郎の曽祖母にあたる人であるという。[20]

表参道の右側にあり、享保四年(西暦1719年)の寄進であるという水盤を配する、万病に効験ありと云われる泉―『亀の水』。山門の脇にあり、小さな千体の地蔵尊を安置する、安産授子の霊験ありと云われる地蔵―『子安千体地蔵尊』。同じく山門の脇にあり、香華(こうげ)を日々絶やすことなしという、水子(みずこ)の供養のために建立された地蔵―『水子地蔵尊』。視力の回復に効験ありと云われる『ふれ愛観音』、『水琴窟』なる小池とその傍らの『人丸観音』など。数多の事物があわせて伽藍を形作っている。[21]

余話

明石城跡の佇むところの広大な公園―明石公園―の内の林の一角に、『人丸塚(ひとまるづか)』と名付けられた、その外観から古墳を思わせもする遺跡がある。これは覚証が住職を務めていた仁和の時代に、同人が柿本人麿からの夢のお告げを得たことで、その人麿公を何らかの形で祀ったものであるという。この地に明石城が築かれてからは、同城の守り神として祀られてきたとのことである。[22]

一度は国宝に指定されもした桜町天皇(さくらまち-)の奉納による短籍(たんざく)や、数多の帝、文人、墨客などからの奉納物を今も豊富に有し、それらの一部は明石市立文化博物館に保存されているという。[23]

所在と交通

所在は兵庫県明石市人丸町1-29にて、電話番号は078-911-4947、最寄の電停は明石駅。南に曹洞宗・雲晴寺、更に南に休天神社、稲爪神社、臨済宗・大蔵院、西に日蓮宗・本松寺、その更に西に妙見神社、日蓮宗・大聖寺、神戸大学附属明石小学校、同中学校などがある。

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