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2007年11月26日 (月) 06:53の版

十如院との院号とともに荘厳山との山号を称する日蓮宗(にちれん-)の一ヶ寺―妙正寺(みょうしょうじ)というその寺は、福岡の地の南方―筑後(ちくご)・久留米(くるめ)の街の一角にあって、数多の寺々とともに寺町(てらまち)を形作っている。

画像:妙正寺 IMGP9230.JPG
ある冬の日に開かれたその山門

目次

歴史

今でこそ当地―久留米―に時を刻む本寺―妙正寺であるが、本寺は元は摂津国(せっつ-)の三田(さんだ)というところにあった。今の兵庫県―三田市の内にあたるこの三田という地は、ちょうど元和6年(西暦1620年)に至るまで有馬豊氏(ありまとようじ)が領有したところである。

本寺がこの地を離れることになったのは、この有馬豊氏が根城としていた丹波(たんば)の福知山(ふくちやま)―今の京都府福知山市の内―から当地・久留米にその藩主として移ったときのことであった。時は元和7年(西暦1621年)。これをもって本寺は、十如院日舜なる者を開基の僧として当地に新たに開山した。

藩主も2代目の有馬忠頼(-ただより)の時代(西暦1642~1655年)には、梅林寺(ばいりんじ)―久留米藩主有馬家の菩提寺でもあった修験道(しゅげんどう)の寺として名高い古刹―のそれに匹敵するほどの寺領の寄進の話があったものの、なぜか辞退。

江戸時代も中期に差し掛かる頃―伝えによれば安永5年(1776年)―には、肥後(ひご)―熊本の本妙寺(ほんみょうじ)からの分霊によって、のちにまで遺る清正堂が創建された。

画像:妙正寺 IMGP9237.JPG
武将・加藤清正(かとうきよまさ)にゆかりの肥後・本妙寺から勧請された『清正堂』は、同じ寺町にあって宗旨をともにする妙善寺の境内にもある。

寺地を置く寺町の内に『本清寺』や『寂光寺』といった末寺があったが、いつしか両寺とも廃寺となって本寺に合併された。久留米市の隣の大川市に現存する常清寺や、秋月(あきづき)―現朝倉市秋月―にあった本澄寺という寺も本寺の末寺であったという。

伽藍

〒830-0014―『福岡県久留米市寺町』として公式の住所ともなっている寺町は、この市の中心部と言えよう場所からほど近くのところにあり、その北のほうに大河―筑後川(ちくご-)の流れを湛える市街のさなかに佇んでいる。

心光寺、宗安寺、本泰寺、浄顕寺、誓行寺、千栄寺、医王寺、少林寺、遍照院、徳雲寺、善福寺、妙善寺、正覚寺、妙蓮寺、西方寺真教寺、・・・宗旨も歴史もそれぞれのこうした数多の寺々が軒を連ねるこの町のそのひと隅にあって、本寺―妙正寺はこれらのうちの西方寺と妙蓮寺とに挟まれ、誓行寺と正面を向かい合い、境内に続く山門を西の方角に向けて開いている。

山門を入ればすぐさま本堂。昭和5年(西暦1930年)の改築を経て今の姿に至るというこの本堂は、釈迦如来(しゃか-)の像と多宝如来(たほう-)の像、同時に宝塔などを本尊として、これらを『一塔両尊四菩薩』の様式で安置しているという。

あわせて、江戸の中期に創建された『清正堂』を境内に置き、久留米藩初代御用絵師・三谷等悦の筆による『十六羅漢図』、月仙なる人の筆による『七賢人』を寺宝に有し、今の伽藍を形作っている。

墓碑

  • 坂本元蔵 - 久留米つつじ元祖
  • 三谷家 - 久留米藩御用絵師
  • 富士松紫朝 - 新内紫朝節創始者
  • 左右田尉九郎 - 明善堂初代教授
  • 古川甫英 - 藩医奥詰/蘭外科医術者
  • 久徳与十郎 - 明治二年殉難志士の一人
  • 加藤米山 - 学者/教育者

所在

住所は福岡県久留米市寺町77にて、電話番号は0942-33-6315、最寄の電停は櫛原駅。

資料