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2007年11月1日 (木) 09:49の版

浄土真宗本願寺派、真如山―正光寺しょうこうじ)は、福岡県の県都・福岡市―その博多区の外れのところにあり、江戸時代の初めの頃に発する歴史を今の世に刻んでいる。

画像:正光寺 IMGP8691.JPG
その山門と石塔―『浄土真宗 真如山 正光寺』

目次

歴史

かつてこの地に宝順という名の僧がいた。肥後国(ひごのくに)―のちの熊本県―の出であったこの僧は、元は柴田源右衛門正光―または柴田源太夫正光―と名乗った人物で、本寺の縁起によれば、豊前国(ぶぜんのくに)の中津(なかつ)―のちの大分県中津市―の戦国武将・黒田孝高(くろだよしたか)の臣であったという。仏門に入ったのが天正十六年(西暦1588年)のこと、宝順と改名したのが筑前国にやってきたとき―ちょうど慶長の頃のことであった。

やがて宝順は一宇の堂を博多の辻堂町―出来町(できまち)ともいい、現在の博多駅のすぐそば―に建立した。これが慶長十年(西暦1605年)のことで、自らの名を用いてその堂の寺號とした。ここに正光寺の歴史が始まった。

それからちょうど百年の時を経た頃―宝永三年(西暦1706年)に焼失。これをもってかその後に春吉村(はるよし-)―現福岡県福岡市中央区春吉―に移転したが、嘉永三年(西暦1850年)に再び焼失の憂き目を見て、雲霓という、中興の祖たる第九世の住職により本堂が再建されるに至った。

時も下った昭和三十九年(西暦1964年)に現所在地に移転。今田正昭が取材した時点―昭和63年(西暦1988年)の11月から平成2年(西暦1990年)の5月までの間―で住職は第十三世であった。

古書の記述

  • 『正光寺
四番町の東に在。一向宗博多万行寺の末なり。始は博多辻堂に在しを後今の所に移すと云。』
― 筑前国続風土記 拾遺
  • 『正光寺 四番町上 眞宗西 佛堂二間三間
博多萬行寺に屬す。開基ハ肥後國の産柴田源太夫正光と言者、慶長の頃本州に來りしか、世を遁て寶順と改名し、博多辻堂町に一宇を建立し、己か名を用ひて寺號とすと言。後に此所に移す。』
― 筑前国続風土記 附録

伽藍

博多区の南の外れから北へ博多駅の界隈までを結ぶ車道―通称、筑紫通り。その南の終点に近きところ―かの通りが線路を越えようと宙に盛り上がる地点にあって、正光寺はちょうどその脇の一角に伽藍を据えている。

山門の手前に寺号を刻む一柱の石塔―昭和五十三年(西暦1978年)の建立―を据え置き、その境内には梵鐘、庫裏、そして本堂・・・と、数多の寺に一般的な事物を有するのみ。

境内の左隣には麦野公園という小さな公園があり、境内の右隣には、本寺の運営によるものであろう『正光寺ひかり幼稚園』という、浄土真宗本願寺派保育連盟に加盟[1]の幼稚園が位置している。この正光寺ひかり幼稚園は昭和四十年(西暦1965年)に開設したものであるという[2]

余話

昼間でも山門を閉ざしていることがある。

所在と交通

所在は福岡県福岡市博多区三筑2丁目31-1。最寄の電停は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。ほど近くに、福岡市立三筑小学校、同市立三筑中学校、金光教雑餉教会などがある。

資料

  • 福岡寺院探訪』 - 今田正昭
  • 『筑前国続風土記 附録』 - 加藤一純/鷹取周成
  • 『筑前国続風土記 拾遺』 - 青柳種信