Fler
Fler(フレァ)―Frank White(フランク・ホワイト)との異称を携えもするこのドイツのラッパーは、この国のヒップホップの世界でもかなり名高い部類の男である。ドイツのヒップホップ界で最も先鋭的なレコードレーベル―アグロ・ベルリンに在籍するフレァは、このレコードレーベルの仲間たちに同じくしばしば論争を引き起こしてきた。
そんなフレァは、1982年の9月8日(4月3日との情報もある[1])にこの国の首都―ベルリンの西部郊外にパトリック・ローゼンスキー(Patrick Losensky)という名でその生を享け、父の顔を知らずに育った。学校では問題ばかりを起こし、そのためか、やがてひとりで生きてゆくというような決意をし、ペンキ屋の見習いとしてしばらくを過ごす。ラップを初めてやったのは20歳になってからのことであった。
いつしか悪さよりもヒップホップを追求することを決め、2002年―フランク・ホワイトという名で、当時勃興しつつあったラッパー―Bushidoのレコーディングに参加する。その翌年にアグロ・ベルリンに加盟し、更に翌年の2004年にFlerを名乗り、初のSPとなる"Aggroberlina"をリリース。いきなりドイツのヒットチャートで100位以内に入る。そうしたなかで発表した"Neue Deutsche Welle"(『ドイツの新たなうねり』の意)というLP―これが一つの転換点を生じることになる。
"Neue Deutsche Welle"―2005年に世に出したこのアルバムは、国内のヒットチャートで9位にまで上ることとなったが、同名の収録曲の内容が『右翼的』であるなどとして激しい批判に晒されることになった。そして『ラップの歌詞』それ自体についてやいわゆる『ネオナチ』(と論者が見做した)要素に対して巻き起こったその批判の嵐は、『フレァ』と『アグロ・ベルリン』に対して全国的な『悪名』を与えることとなった。そうした論争を脇に、このLPは欧州ビルボードのトップ100にその名を見せもした。
2006年のLP―Der Trendsetterなどが続けて成功を記録し、この頃から、そのリリックは『右寄り』と評されてきた世界観から『ギャングスタ(Gangsta)』へと焦点を移す。常に付きまとう『ネオナチ』との評判のなかにあって、同年に発した"Cüs Junge"という楽曲ではトルコ人女性とドイツ人女性の美しさを探求。その8月にはマイスペースに自身のページ[2]を開設した。
それから一年余を過ぎて2007年も暮れの頃には、ナイフを手にした覆面の集団に突然襲われるという事件が起こる。ベルリンのスタジオにいたときのことで、3人がかりの襲撃であったという[3]。
2008年には通算10枚目となるLP―"Fremd im eigenen Land"を発表。Bushido、Sido、B-Tight、・・・名のある数多の巨頭たちと共演しつつ、ドイッチャー・ヒップホップ(Deutscher Hip-Hop)の世界に止まずその名を馳せ続けている。