B-Tight

B-Tight(ビー・タイト)―またの名をBobby Dick(ボビー・ディック)Bobby(ボビー)Der Neger(デァ・ネガー)などと称しもするこの男は、ドイツのヒップホップの送り手のなかでも最も先鋭的なインディーズレーベルアグロ・ベルリンにその籍を置くラッパーのひとり。同じくこのレーベルに所属するSido(シドー)と組んでA.i.d.Sと名乗り、同時にひとりのラッパーとして数々のリリックを生んでいる。

そんなビー・タイトは、西暦1979年の12月28日―アメリカ合衆国はカリフォルニア州のパーム・スプリングスにおいて、ロジャー・エドワード・デーヴィス(Roger Edward Davis)という名でその生を享けた。その幼少の時期にはバスケットボールの選手になりたいとの夢を抱いていたが、やがて生じた脚の怪我がそれを不可能にする。

B-Tight ~ 粋るある日のその肖像
B-Tight ~ 粋るある日のその肖像

いつしかドイツに移ったロジャーは、それからその首都―ベルリンの北部に位置するメルキッシェス・フィーアテル(Märkisches Viertel)と呼ばれるところの、高層団地の立ち並ぶ町で育つことになった。ここでのちの盟友―シドー―と出会ったロジャー―のちのビー・タイトは、この相棒と一緒にプレイステーションで楽曲をつくって楽しんでいた。

2000年に自身初のLP―『ビー・タイト、ザイン・アルバム(B-Tight, sein Album)』を制作。そのラッパーとしての本格的な来歴はその翌年の2001年、シドーとふたりで結成したA.i.d.Sから一枚のLPをリリースしたことで始動した。スプラッシュ・スペシャル(Splash Special)と題したこのアルバムは、A.i.d.Sにとっての初のレコードであったと同時に、立ち上げられて間もないアグロ・ベルリンにとっての初の商品でもあった。

アグロ・ベルリンの一員になってからというもの、Bushido(ブシドー)Fler(フレァ)、G-Hot(ジー・ホット)、King Orgasmus One(キング・オルガスムス・オーネ)、そしてシドー・・・などなど数多のラッパーたちとともに膨大な数のトラックにその名前を連ねてゆく―その傍らで、自身がマリファナの愛好者であることをほとんど隠していなかったが、2004年の参加LP―『アグロ・アンザーゲ ヌンメァ.ドライ(Aggro Ansage Nr. 3)』に収録の"イッヒ・ビン・クリーン(Ich bin clean)"というトラックにおいて、愛好してきたマリファナを辞めるとの旨を歌いもした。

そうしたなかで、2006年には娘を授かり一児の父となる。その翌年に発したシングル―"イッヒ・ビンス(Ich bins)"はドイツのチャートで45位にまでのぼり、2枚目のソロLPとなる『ネガー・ネガー(Neger Neger)』はドイツのチャートで6位、同時にオーストリアのチャートで16位を記録。ほかにも多数のトラックをメジャーのチャートに送り出している。

相棒のシドーに同じく自らを『ネガー(Neger)―英語の『ニグロ(Negro)』に相当するやや侮蔑的なスラングでその意は『黒人』―と呼んでしまうこの男は、自らの肌に黒色の塗装を施したうえで、自らのことを『ムラート(『白人と黒人の混血』の意)』であると見做し、しばしば自身の内なる『白人』と『黒人』の闘いの様を歌う。そしてひとりのギャングスタ・ラッパーとしての発表作の数々は、長い付き合いになるアグロ・ベルリンのその悪名とともに、しばしば物議を呼び起こすのだ。

かくしてドイッチャー・ヒップホップ(Deutscher Hip-Hop)の世界にその名を知らしめ続けるビー・タイト。その"アグロ"(攻撃的)な活動は止む時を見せず、その矛先はやはり同業者にも向かい―フレァと組んでEko Fresh(エコ・フレッシュ)をディスった"ドゥ・オファ(Du Opfa/2005年)"から続いて、2007年の"イン・デン・ムント(In den Mund)"ではD-Irie(ディリー)をディス、更に2007年の"カイナー・カン・ヴァス・マッヒェン(Keiner kann was machen)"では、フレァ、Kitty Kat(キティ・カット)、Tony D(トニー・デー)、そしてシドーと組んだうえで、かつての仲間であったブシドーをディスった。

目次

D

共作やA.i.d.Sのそれは除く。

LP

  • 2000年: B-Tight, sein Album
  • 2007年: Neger Neger

SP

  • 2007年: Ich Bins
  • 2007年: Der Coolste

資料

リンク

  • B-Tight - 公式マイスペース